『西鶴一代女』の個人的感想または、私設初日通信

感想の追補

 

11月帝劇特別公演『西鶴一代女』の個人的感想
または、私設初日通信


 初日の始まるニ・三日前に、この前のページの『一代女』と『五人女』の文章を打ったので、六話の主人公である、六人の女たちのことは、ごく大雑把ながら、頭に入れて観劇に臨むことができた。


 堀井康明氏の脚本は、踊子のおまんが、恋人源五兵衛と引き裂かれた後、一代女となって彷徨する物語を主旋律とし、そこに愛のために自滅する、お夏とお七の物語を重ね合わせた、対比的な構造によって成立している。
 登場人物を、オムニバスでなく、(特におまんと)綯い交ぜにしたことで、一代女という、元は顔の無い、存在感を持たなかったはずの一代女が、能動的な意志を持つ女として描かれることとなった。
 かえって、恋に暴走するお夏とお七の二人の方がボツ個性的で、B席から見ていると、まったく同じ雰囲気に感じた。

 真実(?)の、たった一つの恋を盲信し、それを極める時に、後先を考えず暴走し、潔く死ぬか、それともあらゆる生き恥を晒し、それでも、どんなことがあってもその恋のために生き続けるか、『西鶴一代女』の物語は、恋を信じ、恋に全てを賭ける女の物語だと思う。


 原作の『好色一代女』は、恋の存在を否定したからこそ、あらゆる男たちに身を任せ、肉体だけの関係を繰り返す受動的な女の物語である。一代女が、心の奥底にどんな感情を秘めているのか否か、それは読む者の感じ方によるが、表面は至って心情を持った色恋というものを否定的に描いている。


 11月8日朝日新聞夕刊に、劇評が載っていた。表題には、“華やかだが、もっと独創性を”と書かれ、本文中には、“やや込み入ったメロドラマ”と評されていた。


 メロドラマねー…といった感じだが、思っていたほどにエログロなイメージではないし、恋愛至上的な上辺の展開は、そう取られても仕方ないのかな…とも思う。


 四條河原の傾き踊りに始まって、ラストもこの四條河原に戻ってくるという構成に、これは全編を通した芝居だったのだと気付けば、何故メロドラマ仕立てなのかが分かってくる。
 おまんはまだ若く、美しい、本当の恋を知らぬ若衆姿の踊子で、一代女を演じたに過ぎないのだ。

 踊子おまんは、一代女を演じながら、観る者に語りかけてくる。
 こんな絵空事の芝居ではなく、己が身の上をよく御覧。お前にも一代女の血は流れているのだから。と、


 恋に殉じる女の前に、男はまるっきり無力であるということも、この物語は語っている。
 積極的なのは常に女の方で、男はあくまで受身の存在なのである。 

(11月9日)

 

感想の追補

 初日の幕が開いて、花組のHPに掲載されている『稽古場日誌』が『本番日誌』へとタイトルを変え、日々新しい発見、驚きや喜び、反省などが、毎日のように書き込まれていくのを読むたびに、その感動が伝わってくる。
 しかし、そういった日誌の類を読んでいても、また、何度も舞台を観たとしても、作る側と観る側との間には解釈のズレが生じてくるものだと思う。それは観る人の数だけあってしかるべきものだというのがわたしの考えである。


桂氏の清十郎のこと

 楽日間近に、フリーライターの大原女史のHPに桂氏本人の書き込みが載り、当人の役に対する思い入れ、演出家の意図との差などを改めて考えてみたくなった。

 清十郎の処刑後、恋人の死を知り気がふれてしまうお夏の物語を一幕の舞踊劇に仕立てたのが『お夏狂乱』で、舞台『西鶴一代女』の中では、気のふれたお夏の“罪悪感が生んだ幻”として、鞠が清十郎の首に変り、そして清十郎登場へと続く。
 あくまでお夏の側からの想いによって生まれた幻の清十郎ではあるが、わたしはそれ以前の、まだ生きていて逃げている段階から、この二人が本当に相思相愛の仲だったのかということに疑問を感じていた。
 情を交わし、しかも駆け落ちまでするという二人が、見るからに手代とお嬢様のままという様子なのが、どうしても釈然としないのだ。
 そういうカップルがいたっていいではないかと言われればそれまでなのだが…。

 西鶴の作品の特徴として、男女の抜き差しならぬ色恋、そして心中に至る様を、同情や憐憫の思いと併せて、じつに愚かしい者たちとして描いている。添い遂げる美学、死んであの世で一緒になろうとする感覚が、現実的な西鶴には無いのかもしれない。

 清十郎は、お夏を愛していなかった、ただ、奉公先の家の娘と関係を持つことは重罪で、駆け落ちして捕まれば死罪となる。清十郎の目的はそこにあったのかもしれないとわたしは考える。
 室津で恋人の遊女を死なせた清十郎は確かに女色を絶ったのだ。例え肉体的な関係をお夏と結ぼうとも、それは自分が死ぬための手段に過ぎなかったのである。
 お夏がその事実を知っていたかどうかは分からないが、関係後も、共に駆け落ちする身となっても、自分は本当に清十郎から愛されているのか、実感としてつかめなかったのだと思う。だからこそ、幻として現れた清十郎は、鞠のように、お夏の手から転がり落ち、手の届かないところへと消えていってしまうのだ。

(12月28日)

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