KOKAMI@network vol.2
『プロパガンダ・デイドリーム』
個人的感想

 鴻上演出の舞台を、今回初めて劇場で観た。以前にもテレビ中継等で『天使は瞳を閉じて』や、『トランス』など観ていたけれど、やはり生で観るのが一番だと思った。
 モニターの使い方がとても効果的な舞台だった。
 物語が始まると同時に、正面にステージの大半を占める大きなモニターが降りてくる。そして両袖に三つずつ、計七つのモニターに、時に舞台の芝居を生で、そして撮影された画像が、とても巧みに流れる。
 モニターはテレビであったり、背景であったり、心象風景にもなる。

 物語の構造はかなり複雑な気がした。表層的な部分の笑えるところを楽しんでいると、いきなり深いテーマを突きつけられ、それにとらわれている余裕もなく、物語は展開していく。

 最初に書かれた『デイドリーム』の結末では、芙蓉様が撃ち殺されてしまう。
 絵美も、犯罪者の家族として、マスコミや世間から傷つけられていた。母や姉同様に父親の行動を否定していたことが伺える。ただ母や姉と違うことは、絵美は自分の世界を作りあげることで、現実から逃れ、空想の中で、家族や自分を客観的に見ることが出来た点にあると思う。

 カルト教団の祖芙蓉様は、現代の世間からは受け入れられない存在の象徴。しかし、彼のような人物を救いとする者がいることは、現実を見ても分かる。


 絵美の父親は、息子の事件に関して、世間への謝罪を拒んでいるが、山室と会った時、“現実と空想の区別がつかなくなる”と娘のことを語り、そのことで山室に迷惑が掛かっていないかと気にし、謝るという娘想いでもあり、とても常識的な面も持っている。
 山室もそのような男がなぜ、世間を敵に回すかのような態度に出ているのか、疑問に思ったかも知れない。
 “世間とは、戦おうとすれば姿を見せず、謝ろうとすればそしらぬ顔をし、忘れようとすれば、執拗につきまとう。”父・正和が言う台詞。そんな世間に対して、どうして誠意を持って謝る事が出来るというのか?“成人した子供を自分の従属物にしたくない”という理由の他にも、正和の考え方の中には、世間に対する理不尽さがあるのかも知れない。
 正和が望んでいるのは、変わらない暮らし。世間の非難を受けても、引っ越したりせず、日常の生活を続けている。
 “自分は自分だ”という考え方を持ち続けることの難しさ。ましてや家から犯罪者を出してしまったこと。正和の“変わらずにいること”は、逃げる、隠れるといった消極的で、個人的な“変化”とは比べものにならない程の力が要るはずだ。
 ただ“変わらずにいる”力は、世間の流れに抵抗しているに過ぎない。“流れを変える”ための力とは別のものだと思う。


 絵美の死後、山室に送られてきた新しい小説は、『デイドリーム』の書き直されたラストシーンだった。絵美は芙蓉様(=父)を撃つのをやめる。初めはマスコミという世間を操ることで、自分を守ろうとしたが、父や想いをおなじくする同志たちと家に篭城し、世間と闘うという道を選ぶ。山室や、『武装戦線無意味派』の広瀬と寺田も加わっている。

 現実の山室は、絵美が生きている時、ルポライターという職業柄もあってか、物事を冷静に客観的に見詰めるために、暴走する彼女とは一線を画し、距離を持ち続けていたように見える。
 しかし、新しい小説を読んで、自分の闘う相手、その意義を知ることとなる。

 確かにこうして走り出すことを決意した山室は格好いい。ニの線だと思う。でも、あくまで理想論だな…と、観ている時から既に感じてしまった。格好良過ぎるから。

 絵美と出会う前の山室はルポライターとは名ばかりで、仕事にも恵まれず、ただひたすらパソコンに向かっていた。テレビや新聞にも目を通さない。
 山室も、父親の犯罪がマスコミに暴かれて、記者の職を追われて以来、世間から逃避し続けていたのかも知れない。
 そんな彼に、これから何が出来るというのだろう?と疑問が残ってしまう。


 弁護士に詰問される時、うろたえる山室の様子は、『祈る女』で、子供を斡旋していることを暴かれた時のスキタと少し似ていた。高見に立っていた者、傍観者だった者の違いはあるが、突然物語の当事者になってしまう、驚愕と否定と怒り。
 自称贔屓の欲目かも知れないが、加納氏は、物語の中で著しく変容する登場人物の役が上手いと思う。


あしゅけのお気に入りの1シーン。

観た日:5月11日(thu)席:1FA列3
2000.5.15(fri)

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