| 波を表すオーガンジーが天井一面を覆う他は、セットらしいセットは何も置かれていないステージ。 黒・グレー・紺・茶色のデザイナーズ・ブランド(A.A.R)を身にまとった役者が踊り、歌い、そして演じる。
水の中の物語を思いきりドライに魅せる舞台でした。
役者は全員男性の服装、そして男性の身体、声、所作でいて、各場面毎に様々な役を演じる。
『花組をどり』、『ザ・隅田川〜再演ニ非ズ』の時、黒衣や紋付袴といったユニフォームの上に、着物一枚を羽織ったり、仮面を被ったり、女役の時には声を作り、その役柄を際立たせていたが、今回それに倣っているのは、扇子を持つことのみ。
それまで波を演じていた者が、瞬時に女房になり、一回転すれば黒潮騎士となり、そして公子の鎧となる。
役者の衣装や所作によって、その役柄や役割りを見分けるという親切さを排除した分、観る側にある程度の状況判断力が必要。
ただそんな野暮なケチを付けなくても、演劇というものが、舞台の上で他人を演じることという理解力さえあれば、誰にでも楽しめる。
さらに原作を知っている者には、チャネリングのように変化する様子がより小気味良く感じられる。
スタイリッシュなので、ちょっとイメージは違うけれど、実験的という意味では、一時期使っていた、“控櫓興行”的舞台という気がする。
初日には掛からなかったけど、千穐楽では、大向こうから“二子玉屋ッ!”と座長の屋号も掛かった。
舞台のイメージとそぐわない気がしたけれど、オフィシャルの掲示板で座長は嬉しかったとおっしゃっているし、花組だから、“あり”なのかなあとも思う。
初日の第一印象は、正直今何故に?!と思ってしまった。
前年からの座長のNHK連ドラ(「あすか」)出演、一月の天守の華やかさ、そして外部出演が続き、ご新規の見物を得た年の、最後の締め括りに、ここまで削り落とした(逆に理解をより難解にしてやいるのではないかと思われる)素の舞台が、果たしてすんなりと受け入れられるのだろうかと、随分心配だった。
結果的には杞憂だったようです。
男役で座長を知った人は、男の形で美女を演じる座長を、女の拵えや所作で居るよりも、ずっと肯定的に捉えられるのかも知れない。
芸に唯一の答えはありません。
見ること、視ること、魅ること、観ること

美女は、親の我欲のため“孝行”という理由で、自らの命を犠牲にする。
しかし、竜宮城に連れてこられた美女に公子はある種の人間的な打算を捨てることを要求した。
美女は父に従って命を竜神に差し出し、そして父よりも威のある公子に妻として従うことになる。美女にとって、それは悲劇ではなく、哀れだという自覚も無い。
自分の美貌をもって、力ある支配者に取り入れられる。この点で、美女のしたたかさを感じさせる。
公子がおさんやお七といった、恋に暴走した末に華々しく殉じる女を愛するタイプの男という描かれ方が面白い。
別荘に輿入れしてた美女には、恋しい男のために殉じたわけではないから、おさんやお七のような切迫感が無い。
美女は公子から愛されているけれど、自分からは公子のことを愛していないから。
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公子の怒りに触れ、黒騎士たちに捕縛された美女が、何故、公子に直接殺せと挑んだのかは、本を何度読んでも、単に美しい者の奢りから、咄嗟に出た言葉なのか、それとも計算尽くのことなのか、どちらにも取れてしまう。
兎に角、大勝負だったことは確かだ。
その言葉に心動かされた公子が美女に刃を構えなければ、美女は公子と目を見交わすこともなかったのだし、その瞬間が無ければ、美女は全てを忘れて、死を覚悟するまでには至らならなかっただろうし、公子も美女の表情におさんやお七と通じる真摯さを見ることはなかったのだから。
血を交わす時、公子は終生を盟うと言うけれど、美女はあくまで“お見棄てなきよう…”とうなだれる。だから、美女は公子とは対等じゃない。
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花組の血を交わす盟いの儀式は、交わすどころか、激しく混ざり合う感じがした。互いを貪り啜って、一つになり、やがてゆっくりと蹲る。
そして蹲った姿は、脱皮した殻のようなもので、混ざり合った二人は一つの生命体になり、僧都や博士、女房たちの目にも見えなくなる。
わたしはこの場面を観ていて、何かに似ているなと思ったのだけれど、バクテリアやプランクトンなどが、分裂する単生殖ではなく、違うDNAを持った、オスとメスが互いのDNAを交換している姿に似ているのだと思う。だから、恍惚としている公子と美女の表情を観ても、所謂一般的に言われるようなエロスは感じられなかった。最も、種の保存こそが生き物のエロスの根本だとすれば、そういう原始的なレベルで感じ入ることがあっても、自然なことなのだろう。
“一歩目には〜”からのラストの科白の場面は、この態勢からどうやるのだろうと思っていたけれど、声だけが響いて、別荘に残った僧都、博士、女房、侍女・黒潮騎士たちはその声の在り処を探る。
公子は美女を伴って別荘を後にし、更に深い深い海底の邸宅、竜宮へと潜って行ったかのようだった。
美女が陸に行き、酷い仕打ちを受けている姿を、公子は笑いながら傍観している。ここに戻って来るしかないのだと確信した笑い。あの場面の表情は上手かった。落語の『淀五郎』のように、見る者の表情だけでその目の前の様子を描いている。ト書きにも無い演出で、良い場面でした。
美女が愚かな生き物だと分かっていて、公子はそれでもその美しさを愛する。
舞台で、美女は公子のことを、早くから見ている。桃の雫を飲んではしゃいだり、気が大きくなって、我侭言ったりする。戯曲を読んでいると、美女が公子と目を合わせるのは、本当に最後、刃を構えられ、殺される時。
美女はずっと公子を恐れているから、顔を見ることが出来ないものと思っていた。だから、初日、舞台を観ていて、顔見合わせてるじゃんっ!公子が恐くないの???と、かなり納得出来なかった。
演出の意図は分からないけれど、この舞台でも、美女は公子を“見て”はいても、“視て”はいなかったのかも知れない。
公子にとったら、人の命など、花をむしるよりも容易いことで、過去にもそれを繰り返していたのかも知れない。でも美女は、自分を愛しているという公子が、まさか、自分を殺すなんて…と思っていたのでは?美女は公子の本当の姿を視てはいなかった。
しかし、殺される時になって、美女は公子を初めて“視て”、そして、公子に従うしかない自分の非力さを知り(?)同時に、そのような竜神と呼ばれる存在である、公子が自らの手で自分を殺す。自分の願いを聞き入れてくれた時、美女はやっと公子を“魅る”ことが出来たのかも知れない。かなりのこじつけ(笑)
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『海神別荘』は、人によってはあまり良い出来ではないという意見がある。
ごちゃごちゃした人間関係がほとんど描かれていなくて、ひたすら公子と美女が結ばれ、高みに昇るためのステップのみが描かれているからだと思う。“結局ハッピーエンドじゃん”みたいな感じ。
でも、短編で、公子の恋敵となる人間の青年とか、美女を苛める侍女とか、そんな複雑な伏線は張れないもんね。
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