『リア王』かんそう 

 言葉というものが、どれだけ人の気持ちを表し、伝えられるものなのか?
 物書きや役者でなくても、誰もがその問題には、必ずぶつかることがあるはずだと思う。

 父、リア王から愛されていた末娘のコーディーリアは、やはり父の愛情に少しも劣ることなく、父を愛し、尊敬していたはずだったのに、上の二人の姉たちに較べて、正直で、不器用だったために、リアを怒らせてしまう。
 リアはコーディーリアを一番可愛がっていたから、やはり思い通りの返答が得られなくてショックだったのでしょう。可愛さ余って憎さ百倍だったのでしょう。でも、追い出すことはなかったはず。
 姉たちのように、家来に嫁がせたりもせず、傍においていたのを、外国に嫁がせてしまう。
 しかし“口で言うのは簡単だ”ということ。

 リア家の物語は、リア王自らの愚かさが招いた悲劇だが、グロスター家の物語は、妾腹の子エドマンドの奸計から始まった悲劇で、より印象的でした。

 エドマンドは彼なりの方法で、父親に認められたかったのだと思います。あらゆる努力で、エドガーよりも自分が優れているということを示したかったのに、それを認められたという実感が得られなかった。
 嫡子であれば、望まずとも手に入れられるもの。当然の権利として得られるはずのもの。
 死の間際に、兄から父親の遺言を聞き、非情になり切れなかった。でも、幸せだったのかな…


 二人の姉、ゴネリルとリーガンは、どうしてリアのことをこれほどまでに疎んじたのか?
 彼女たちが生まれた頃、リアは領土拡大のため、日々戦さに明け暮れ、ほとんど家族を省みなかったのではないだろうか?
 コーディーリアはリアが晩年になってから生まれた子だから、国も平定され、平穏な中で寵愛を受けていたから、心から父のことを愛していたのかも知れない。
 中世のヨーロッパでは、どの国でも(まあ、日本などもご多分に漏れずなのですが、肉食のお国柄はやはりスゴイと思う<偏見ッスね(^^ゞ)、他人はおろか、親族間でより一層、血で血を洗う凄まじい権力闘争が繰り広げられていたから、今の常識は通用しないのだろうけれど、原体験としての“愛されているという実感”の有る無しは、その後の人格形成を左右する重要なキーなのかも知れない。

 ラスト、ケントとともに、舞台の奥に歩いていく人形のリア王。その先には、死んだ者たちが浮かび上がるように現われて二人を待っている。この場面は何度観ても、ぐっと来てしまいます。

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