かぶき座の怪人
感 想
1990年の末、『いろは四谷怪談』から花組芝居の舞台を観始めたわたしは、『かぶき座の怪人』の初演を観ていません。
『拝啓かぶき座の怪人さま』が出版された当時(前進座で『雪之丞変化』上演中に購入しました)、観ていない者の劣等感にかられて、同書に収録された戯曲『かぶき座の怪人』、また、上演直後に出版された写真集『花組戯場図会』の写真、あらすじ、演出ノートを読み、さらに歌舞伎入門書などを頼りに、拙くも貧相な知識で読み解いてはみたものの、この演目が、近年のアンケートによると、再演希望No.1であるという、その理由がどうしても納得出来ませんでした。
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1989年、この『かぶき座の怪人』初演当時、花組芝居は、もう十分人気があったと思います。そして、加納さんが歌舞伎についてとても詳しく、無類の歌舞伎好きであるということも知られていたでしょうし、そういう“好き”という思いから作られた戯曲だということも同様であったと思います。
しかし、匿名で、フィクションであると前置きはしているけれど、梨園に対してのシニカルな内容の芝居は、まだまだ“小劇場の花組芝居”という、旗揚げして間もない若造が、怪物のような大ベテランに立ち向かうような無茶な行為であり、観ている側もその無謀ぶりに冷や冷やしつつ、面白がれた、芝居を観ることで同じ気持ちを共有する“同罪感”を分かち合っていたからこそ楽しめたものだったのではなかろうか?と思ったからです。(以上は観てない依怙贔屓の過剰な期待と想像による未見批評です。)
十年経った、現在の花組芝居が、当時と同じことをして、その頃の、否それ以上のスリルは果たして味わえるのだろうか?
配役や演出が変わったとしても、“再演は再演”だとしたら、絶対初演の方が荒削りであったにしてもパワフルだったはず。そんなものを再演希望にしても良いのか?などと考えていました。
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しかし、幕が開いてみると、再演どころか、全くの後日譚ではありませんか。
配役や演出が変わるも何も、『かぶき座の怪人』の物語自体が、初演の頃から、時を重ねていたのです。
また、観劇中、どこが“かぶき座”なの?という疑問が幾度も頭をかすめたのですが、初演の時からして舞台は“死人座”でした。
“オペラ”に対する“かぶき”ということで、今回も舞台は“天地座”という老舗の大劇場であり、“かぶき座”では全くないのだな…と、観終えて思ったのでした。
“切ない”と“苛つく”は紙一重のこと
“複雑な人間関係の先にある、舞台という芸術にとり憑かれた人たちの物語”、と括ってしまえば呆気ないものだけれど、そういう切ない物語でした。
文明座の看板ベテラン女優、九重八重子は、誰もが認める名優ではあるけれど、恋松に、自分が実母であると名乗ることも出来ないまま、インモラルの恋に落ちてしまう。飲酒運転の挙句、不慮の事故で命を落とす。人として、完璧に道を外した、破天荒な生き様&死に様と言える。
その後、見える幽霊となって天地劇場に舞い戻ってきたのも、自分の舞台の千穐楽を演じるためというのが第一目的だった。
また、舞台の幕が降りてなお、消えることなく居残っているのも、恋松に母であることを告げるためではなく、ジャンルは違えど演劇の世界の先輩として、役者とはこういうものだと教え継ぐためだった。
八重子は先輩、春杉夏希が言うように“女優という生き物”としてしか、生きることが出来なかった。
母でありながら、母でない存在。並の人情を持っている人であれば、八重子と恋松の関係に、親子としての繋がりを探してしまうだろう。しかし、恋松の中に、八重子が恋愛対象としてしか存在しない以上、そんな親子の情愛は絶対に存在しない。
この公演中、“あ、『婦系図』の小芳と妙子の関係と似てる…?”と思っていましたが、全然違う。動物的に肉々しくて、生々しい。
切ないお話は、観ていて非常に身につまされます。登場人物と自分の境遇が、全くかけ離れていても、“器用に生きられない”という点だけで自分と結びつけてしまうからです。
ただ、“わたしだったらそんなことしない、言わないっ!”と、登場人物の言動にイライラさせられた舞台でした。
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