泉鏡花の婦系図

日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、
光には魔あり、熱には病ありと言伝える。
然らぬだにその年は九分九厘、
殆ど皆既日蝕と云うのであった。

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舞台の中央には、朽ちかけた空の回転木馬。
壊れかけのオルゴールのようにも見える。
また、回転木馬の周りには、1から24までの数字がついていて、時計のようでもある。

 この物語を回想する人の想いという動力によって、舞台はゆっくりと回り出す。

 誰の想いなのだろう…と、考えながら舞台を観ていて、
やはりこの物語の主人公は妙子なのだと感じた。

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鏡花作品には、円や玉、といった球形のモチーフが至る所で象徴的に登場する。
『婦系図』も、真っ赤な酸漿の実に始まって、日蝕(月・太陽)でクライマックスを迎える。

舞台では酸漿が無かったけれど、虚ろな回転木馬が、
タロットカードにおける、“運命の輪(
Wheel of Fortune)”が如き役割を担っている。

“運命の輪”のカードは、大意としては、“変化”という意味を持つ。
成功者には思わぬ落とし穴。努力の実らない者には、成功への転機といったように、
これまでとは全く反対の方向へと運命が変化することを暗示する。
その一方で、逆位置になると、“逃れられない宿命”といった意味も持つ。

運命を自らの意志によって、方向付け、転がして行けると思うか、
ただ、転がるがままに任すのを運命と定義し、
惰性で生きるを良しとするか。
人によって考え方は様々である。

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早瀬主税の復讐に至る経緯の心の動きについては、
とても複雑だし、考えかたによって、どのようにも解釈出来るけれど、
一つ、一番格好いいと思える奴を考えてみた。

酒井にお蔦との同棲が露見し、否応なく離縁を迫られた際、
激しく罵倒されながら、早瀬はこれが何もかも、
自分の未熟さ故と心底痛感したのだと思う。
舞台の科白には無いが、酒井が言う、
“悪事を為るならするように、もっと手際よく、立派に遣れ。(中略)
お前なんぞのは、たかだか駈けだしの(タッシェンディープ)だ”

酒井の子飼いとなっていた隼が、
愛する婦を棄ててまで、そして死んで、鬼に成ってでも、
恩師一家の受けた恥辱を雪ごうと決意する。
前篇最終章の“巣立ちの鷹”というタイトルは、
早瀬の姿であり、その決意の堅固は、
惣助の計らいで、見送ることになったお蔦とも、
後に菅子に語る、床を並べても“背中合わせで別々に”となるのだ。

舞台で観ていて、一幕目のラストでヒシと抱き合う、
早瀬とお蔦の姿が、少し不自然に思えた。
これは早瀬の心が揺らいでいたからという見方も出来るが。

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以前、新派の波乃久里子さんが、テレビのトーク番組の中で、
『婦系図』について、“愛なんですよ”と語っていたことがある。
あまりに抽象的過ぎて、その時はよく分からなかったけれど、
舞台を観て、原作を読み返して、
早瀬を始めとした、人々の意気地が全て“愛”なのかも知れないと思った。
波乃さんの語る“愛”とは意味が違うかもしれないけど。
“報いたい”とか“報われたい”とか、相手を考えたところで、
所詮“愛”は自分勝手なものであり、
主観的な解釈でしか評価出来ないのだ。

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早瀬は道子や菅子を誘惑し、貞女、良妻、賢母であることを棄てさせ、
家族主義という籠の中から解き放って、自由にしたことを、
正しいことのように論じるのだけれど、
籠の中で飼われ続けた鳥が、突然自由になることが、
果たして本当の幸せなのかと言えば、疑問である。

事実、妻を射殺し、自殺する父親を目の当たりにし、
その原因が本来、敵であった男を愛してしまい、
その命を盾となって庇った自分たちにあると知った二人は、
手に手を取って死を選んだ。
彼女たちは、そうして家族主義に殉じてしまうのだ。
これが早瀬にとって、誤算であれば、
彼は彼女たちを自由にするつもりが失敗したことになる。
それとも河野家を崩壊させるための計算づくのことだったとしたら、
彼もまた女を、自分勝手な義憤の目的完遂のための、
単なる道具として、利用したに過ぎないのだ。

≫≫≫≫≫

妙子の心の奥にしまわれていた思い出を、
計らずも覗き見てしまったような、
切ない想いで劇場を出た。

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観劇日:7月7日(昼),14日(昼)


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