崩壊しつつある、今だからこそ、
律令国家のここが知りたい
Q:律令国家って何?
A:古代国家の一形態で、律(刑法)と令(行政法)を統治の基本法典とした国家です。
巨大な官人群を擁し、人民と班田収受によって、一定面積の耕地を保証する代わりに、戸籍をつけて租・調・庸・雑徭など物納租税や徭役労働を課し、個別人身支配を徹底しました。
日本では隋・唐にならって、七世紀半ばから形成され、奈良時代を最盛期とし、平安初期の10世紀頃まで続きました。
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Q:具体的に律令制って、どんなシステムなの?
A:藤原不比等らにより編纂された大宝律令、・養老律令によって規定された諸制度に、修正増補が加わったもので、官制とも言われています。時代により、統廃合された部署もあります。
太政官をトップに、朝廷内の政や様々な行事を行う各機関の官職、神祗官、左弁官(この下に中務省、式部省、治部省、民部省がある)、少納言、右弁官(この下に兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省がある)、また太政官直属で官人の綱紀粛正を行う権利を持つ弾正台、皇居や内裏、各門を警護する五(後に六)衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府)、各国から贈られた官馬を飼育管理する左右馬寮、武器庫を管理する左右兵庫など。
後宮内にも事務を分掌した内侍司を始め、蔵司、書司、兵司等後宮十二司があります。
京(みやこ)の行政、訴訟、租税、交通といった事務を司る左右京職。
そして各国に置かれた役所。また、外交の要地である国には、攝津職、大宰府といった特別な役所も置かれました。
また、律令制内には入らない、令外官という役職もあります。臨時に必要な役職がほとんどで、その都度、他の官職と兼任で務めました。
天皇を補佐する左・右大臣の次に偉い内大臣、太政官の次官で、大納言の次に偉い中納言、蝦夷討伐のために派遣された征夷大将軍、将門がなりたかった京内の警察・裁判機関検非違使などは、皆令外官です。
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Q:朝廷側の各登場人物の役職ってどんなだったの?
A:田原藤太秀郷は、下野の国の豪族で、下野国に置かれた役所の上から3番目の位でした。また押領使という兵を率いて、国内の凶徒を鎮圧する臨時の令外官も兼任していました。
平将門を討った後は、その攻によって出世し、陸奥国に置かれた、蝦夷を鎮撫する官庁、鎮守府の長官、鎮守府将軍になりました。
七綾姫に横恋慕した藤原忠文は自ら名乗っているように、大中納言に次ぐ重職である参議という令外官職と、皇居の諸門の護衛、出入りの許可、行幸の供奉をつかさどった右(後に左右に分かれた)衛門府の官人です。右衛門府内の上から3番目の位である尉も名乗っている通りです。参議と衛門府の役職の重さに差があるような気がしますが、物語ですから。
史実の忠文は、参議の他に、左弁官の下の民部省の長官、民部卿を兼任していました。天慶の乱の時には、征東大将軍・征西大将軍となりましたが、乱鎮圧後、恩賞には全く預かること無く亡くなりました。太政官の最高位、関白太政大臣で、摂政の藤原実頼の言による処遇と噂され、忠文の死後、実頼の子女が相次いで死んだため、世に悪霊民部卿と言われました。
伊予掾藤原純友は伊予国に置かれた役所の上から3番目の位でした。当時、瀬戸内海に横行する海賊の討伐を命じられていましたが、自ら海賊を率いて、朝廷に反抗しました。
多田満仲は、滝夜叉姫の兄という設定になっていますが、史実では頼光のお父さんです。清和天皇の第六王子、貞純親王の長子である源経基を父に持ち、鎮守府将軍を務めました。武略に優れ、攝津の国、多田に住んだことから、多田氏を称し、家子郎党を養い、清和源氏の基礎を固めたと言われます。
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Q:結局、どうして律令国家って崩壊したの?
A:朝廷が国民を守り、管理し、繁栄するという形態は、朝廷の力が強大であり、国民の信頼を得ることによって成立します。そのためには、朝廷が各地方の政情、国勢といったものを把握していなければなりません。
旱魃や不作で飢饉や疫病が広まっても、変わらず重税をかければ、農民は田畑を捨てて土地を離れてしまい、状況は更に悪化します。地方に派遣された国司や豪族たちの間には、朝廷に対する強い不信感が生まれました。
しかし京で政治の実権を握っている一部の上流貴族たちに、その困窮を訴える国司はほとんどいませんでした。注進したところで、不興をかい、左遷されたり、所領を没収されるのを恐れたためです。そのため、世情はますます悪化していきました。
民が困っても、朝廷は何もしてくれない。その思いが、地方で力を持ち始めた武士の台頭とともに、中央集権の律令国家を崩壊させていきました。
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