『百鬼夜行抄』
特別な能力を持った人にしか、その存在が知り得ない。そう思うと、人はどうしてもその妖怪の姿を見てみたくなる。 主人公の律は、この見鬼の能力を生まれ持ってしまったことに、戸惑いを感じている。余計なものが見えたり聞こえたりするのは苦痛以外の何者でもない。日常生活を送る上で、見鬼の能力はまったく不必要なことなのだ。無駄な苦労に煩わされず、穏やかに過ごすことを望んでいる。しかし見えてしまう。聞こえてしまう。自分だけでなく、身近な者たちにまで危害が及ぶ。 青嵐は龍なので、神道で言うところの荒ぶる神である。仏教用語で言う鬼神である。鬼神は異端の異次元神なので、人間に対しては、あくまで上から下に対する〜してやる的な態度の妖魔なのだが、蝸牛の降伏によって、契約を結んだために自由が利かないせいか、ずいぶんと穏やかな鬼神になっている。しかし、ボスキャラ大姫と互角に戦う実力は検証済み。 尾白と尾黒は古木の精霊なので、木魅(こだま)という妖怪。原始宗教のアニミズムから派生している。棲処である木を切られて路頭に迷う弱さと、木を切った人間をあっさり呪い殺してしまう残酷な荒々しさ、そして恩義を感じた人間には忠誠を誓う律儀さなど、人間と自然の狭間で生き生きと活動する妖魔の特徴が見られる。 大姫は人が鬼となった典型。生前の恨みや妄執を晴らすために鬼となり、その思いを果たし、祟る相手が居なくなっても成仏出来ずに苦しみ続ける。仏教説話では、高僧や行者に救済を求め、仏の教えに救われるというのがパターンだが、大姫は苦しんでもいないし、もちろん救われたいとも思っていない。かえって妖魔となったことを楽しんでいるかのように見える。 ちぬの君は海の怪、あやかしの一種。嵐や津波を起こす自然の脅威の神格化と言える。海神が海全体を統べる神とすると、ちぬの君は宰相という位からも分かるように、瀬戸内海など、一部の海域を守護する神で、海洋民族によって崇拝されてきた神であろう。 鬼灯は名前こそ植物の名を持っているが、天邪鬼や一つ目小僧など、人里に現れる悪戯好きな妖怪のイメージがある。また、屋根や天窓の上から家の中を窺う姿は庚申待ちの夜に眠ると災いを起こすとされるしょうけらにも似ている。 人食いは、三郎の兄となっているが、実は三郎の心の中にある、家族を皆殺しにした兄に対する憎しみや悲しみ、自分が何も出来なかったことに対する悔恨の念を自作の箱庭に封じ込めたものと考えられる。 住職は人間だが、神出鬼没の妖怪、ぬらりひょんとも言える。 司の背中に痣を生じさせしめた塚は、見える妖怪である。しかし器物に精霊が宿る付喪神とは趣が異なる。子産石に似るが、見た目は腐った肉の妖怪ぬっぺっぽう風であった。 司は見鬼の能力と同時に、妖魔に憑かれやすい巫女体質も備えている。律と司が本気になったら、結構いい商売が出来そうです。 律の祖父、蝸牛は幸田露伴がモデルだという。露伴の俳号が蝸牛で、飯嶋家のイメージも蝸牛庵と称した露伴の家だということだが、わたしのイメージとしては、柳田国男の方が強い。柳田もその著書に『蝸牛考』がある。日本の各地で蝸牛をどう呼称するか調べ、方言の分布を調べた研究書である。 律の祖母八重子と母絹は見鬼の能力を持たない人間として登場する。 自分は見鬼だと確信して此処に来たあなた。見えるということを無闇に言いふらしてはいけません。以下にその理由を挙げます。 人間は自然界の中では、実に卑小で、無智で、非力な存在です。徒に超人的なことを目論んだりせず、天命を成し、平凡な生活の中に幸せを見出し、健康に留意し、天寿を全うすることだけを心がけましょう。 役者は皆、花組芝居の座員なのに、何だか外部公演に出演しているかのような、そんな不思議な感覚の舞台でした。 参考資料:『妖怪の本』学研 |