『百鬼夜行抄』
妖怪とは何か?民俗学の権威柳田国男は妖怪を“神々の零落した姿”と定義した。人々から信仰されることで神として存在していたものが、信仰の範疇から漏れ落ち、廃残してなお生き残っている姿ということである。 神とは何か?人間を超越した威力を持つ、隠れた存在。人知をもってはかることの出来ない能力を持ち、人類に禍福を降ろすと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするものとある。 神には高天原の天つ神に対する、地上の神、国つ神が含まれる。国つ神は国土を守護する神として、古くから信仰されていた自然神だが、天孫降臨という始祖信仰を持つ大和朝廷が勢力を広げたことで、悪神、邪神と定義されるようになった。 仏教が伝来し、鬼はどんどん悪者になっていく。人に災いをもたらすものとして、格好のキャラクターとなった。 宗教と信仰と日本 強い信仰と、明晰な知恵を持ってしても、人は今もって超自然的な現象からその身を回避させることが出来ないでいる。 仏教では、災難・不幸は前世の因による結果であり、来世の冥福のために、ひたすら功徳を積めと説く。 公の信仰対象からは追い遣られたものの、民間伝承として連綿と信じ続けられてきた信仰がある。海人と呼ばれる、漁業を生業とする海洋民族や、マタギといった山中に暮らす民族の山岳信仰など、その向き合う自然の中で培われ、根強く信仰され続けてきた、独自の宗教もまた中央からすれば、邪教であり、鬼神崇拝と見なされるのである。 明治初年の廃仏毀釈運動、第二次世界大戦後の神道指令などを経て、日本人は個人的な信仰の自由を得ることとなる。 このような国であるから、信じる対象も、信仰心の篤さも人によってまさに千差万別なのである。 薄く、浅く、広く、とりあえず上っ面だけ齧ってみる。本当は信じてないけれど、テイストだけいただいてみる等々、軽いノリで信仰に関わる。 おぎゃあと生まれて神社でお宮参り、結婚式はキリスト教の協会、死んだらお寺でお葬式。無節操甚だしい国柄である。 自我と知覚と認識 『百鬼夜行抄』の中には“見鬼”という能力を持った者たちが多く出てくる。一般の大部分の人間には見えないために、常識的には存在し得ないとされる鬼や妖怪、心霊の類が見えてしまう能力の持ち主である。見えるだけでなく、会話や交信ができる他、危害を蒙ったりもする。この特異な能力とされるものは、大概が当人の気のせい(幻覚=対象の無い知覚・感覚)であることが多い。何人もで同じものが見えたり聞こえたりするというのも、強い思念を持った一人が発信源となった集団幻覚と考えられる。 知覚や感覚というのは本来、対象の認識を構成するという自我の意識に過ぎず、極めて主観的なものなのである。 幻覚と騒霊と出血斑 妖魔の訪れる家という、特異なモチーフではあるが、心理学的な見解をすれば、わりとポピュラーな構図で説明出来る。 律は怪奇小説家であった祖父の影響もあって、幼い頃から妖魔や心霊などの存在を信じ、その世界に親しんでいた。 律が来年こそ大学に合格し、幻覚を見る頻度が少しずつでも減少していくことを祈るのみである。 |