『百鬼夜行抄』
感想・排撃派


神と鬼と妖怪

 妖怪とは何か?民俗学の権威柳田国男は妖怪を“神々の零落した姿”と定義した。人々から信仰されることで神として存在していたものが、信仰の範疇から漏れ落ち、廃残してなお生き残っている姿ということである。

 神とは何か?人間を超越した威力を持つ、隠れた存在。人知をもってはかることの出来ない能力を持ち、人類に禍福を降ろすと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするものとある。

 神には高天原の天つ神に対する、地上の神、国つ神が含まれる。国つ神は国土を守護する神として、古くから信仰されていた自然神だが、天孫降臨という始祖信仰を持つ大和朝廷が勢力を広げたことで、悪神、邪神と定義されるようになった。
 神も悪神や邪神もどちらも本来は隠れて目に見えないものを意味するが、天つ神と区別するために、悪神、邪神は鬼と呼ばれるようになる。

 仏教が伝来し、鬼はどんどん悪者になっていく。人に災いをもたらすものとして、格好のキャラクターとなった。
 キャラクターに形は不可欠である。本来目に見えなかったものに、人はさまざまな形をつけた。
 密教の陰陽師が鬼は北東(丑寅の方角)から来ると言えば、牛の角を持ち、虎の皮の褌をはいた恐ろしい形相の生き物が鬼のイメージとなる。
 天つ神信仰時代は、単に根の国として死者が住む国であった黄泉の国が、生前に悪事を行ったものが堕ちるとする地獄へと変わり、そこで死者を責める生き物となる。
 しかし恐ろしい鬼も、仏の教えである経文を一心に唱えれば、必ず退散するとされた。強力な敵役から、最後には必ず負ける、引き立て役にまで格が落ちてしまう。
 鬼という存在のうちは、まだ威を持っており、人に畏怖される存在であったが、人が仏教を味方につけることで、鬼の威も次第に廃れていく。鬼は神や仏、そして人に追い遣られ、卑小な存在となり、再び闇の中へと隠れてしまい、忘れ去られてしまう。


宗教と信仰と日本

 強い信仰と、明晰な知恵を持ってしても、人は今もって超自然的な現象からその身を回避させることが出来ないでいる。
 海や山での遭難事故、台風や雷といった自然の脅威。死霊、生霊の祟りから起こるとされる災い。動物霊の憑依とされる精神の病。邪気によるとされる疾病。全ては目に見えない物の障碍による現象と考えた。

 仏教では、災難・不幸は前世の因による結果であり、来世の冥福のために、ひたすら功徳を積めと説く。
 そして仏教の考え方では、妖怪はまず鬼神と魔に分けられる。鬼神は異次元の生き物で、人間に直接危害を加えるものでなければ、全て救済の対象となる。
 魔はさらに四つに分けられる。人間の心の中に生じる欲求を煩悩魔、人間の肉体自身に生じる欲求を蘊魔、寿命を尽きさせる死魔、そして仏法破滅を願う天魔、これが降伏の対象となる。不動明王に降伏させ、改めて救済する。

 公の信仰対象からは追い遣られたものの、民間伝承として連綿と信じ続けられてきた信仰がある。海人と呼ばれる、漁業を生業とする海洋民族や、マタギといった山中に暮らす民族の山岳信仰など、その向き合う自然の中で培われ、根強く信仰され続けてきた、独自の宗教もまた中央からすれば、邪教であり、鬼神崇拝と見なされるのである。

 明治初年の廃仏毀釈運動、第二次世界大戦後の神道指令などを経て、日本人は個人的な信仰の自由を得ることとなる。

 このような国であるから、信じる対象も、信仰心の篤さも人によってまさに千差万別なのである。

 薄く、浅く、広く、とりあえず上っ面だけ齧ってみる。本当は信じてないけれど、テイストだけいただいてみる等々、軽いノリで信仰に関わる。

 おぎゃあと生まれて神社でお宮参り、結婚式はキリスト教の協会、死んだらお寺でお葬式。無節操甚だしい国柄である。


自我と知覚と認識

 『百鬼夜行抄』の中には“見鬼”という能力を持った者たちが多く出てくる。一般の大部分の人間には見えないために、常識的には存在し得ないとされる鬼や妖怪、心霊の類が見えてしまう能力の持ち主である。見えるだけでなく、会話や交信ができる他、危害を蒙ったりもする。この特異な能力とされるものは、大概が当人の気のせい(幻覚=対象の無い知覚・感覚)であることが多い。何人もで同じものが見えたり聞こえたりするというのも、強い思念を持った一人が発信源となった集団幻覚と考えられる。
 律が、式神の使役に失敗し腕に大怪我をするという場面がある。明らかに何者かに傷つけられているように見えるが、これはスティグマといって、皮膚に出血斑を無意識に作ってしまう症状で、信心深いクリスチャンが、イエス・キリストが磔刑に処された時につけらた傷(両手両足と胸、額の茨の冠の跡など)を自分の身体にも作ってしまうスティグマータ(スティグマの複数型)と同様の症例と言える。

 知覚や感覚というのは本来、対象の認識を構成するという自我の意識に過ぎず、極めて主観的なものなのである。


幻覚と騒霊と出血斑

 妖魔の訪れる家という、特異なモチーフではあるが、心理学的な見解をすれば、わりとポピュラーな構図で説明出来る。

 律は怪奇小説家であった祖父の影響もあって、幼い頃から妖魔や心霊などの存在を信じ、その世界に親しんでいた。
 父の不慮の死と奇跡的な再生、そして以前とはまるで人が変わってしまったことによる疑問、母だけを働かせている父に対する不満。
 また受験に失敗したことに対する精神的不安、現実逃避したい欲求。
 従姉の司の原因不明の病気や身の回りで起きる怪事件(これは司自身のスティグマと騒霊現象の可能性が高い)。
 怪しい住職の妄言。
 度々現れては消える亡き祖父蝸牛の霊。
 近所で起きた謎の殺人事件。
 それまでは軽い症状だった幻覚が、さまざまな要因が重なったことで、一気に重症になる可能性は十分に考えられる。


 律が来年こそ大学に合格し、幻覚を見る頻度が少しずつでも減少していくことを祈るのみである。

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