いつの帝の御世かは定かには出来ませんが、仮に桐壺帝(水下きよし)と申しておきましょう。 後宮にあまた侍る女官の中において女御の次の位、帝の衣を替える役目の更衣という位についていた、一際美しい女性がおりました。先の大納言の娘です。その父親は既に亡くなっており、現在は母一人子一人で有力な後ろだても無かったのですが、父の遺言で後宮に入られたのでした。 帝は、右大臣の娘で第一妃の弘徽殿の女御(加納幸和)との間に一の宮(八代進一)をもうけ、また他にも多くの側室を擁しておりましたが、まだ中宮(后、正妻)は決まっておりませんでした。近頃ではこの更衣ただ一人に夢中になっているため、後宮の特に位の高い女御たちは事ある毎に更衣を苛め、いびり倒しました。そのため更衣は心労が絶えず、病がちとなり、頻繁に宿下がりをしておりました。帝はまたそうした更衣の様子に一層心を惹かれ、ますます更衣を寵愛なさるのです。 更衣はやがて帝の子を身篭り、宿下がりをして玉のような御子を産みます。これが後の光の君(橘義)です。御子の母、御息所となられましたが、後宮に戻っても相変わらず周囲からの風当たりは強いものでした。特に帝に召されて清涼殿に向う際、御息所の住んでいる淑景舎からだと、弘徽殿の女御を始め、有力な女御たちの住む局の前の廊下を通らねばならず、時に不浄の物を撒かれたり、狭い廊下の端と端をついたてなどで塞がれ、通せんぼなどという、陰険な嫌がらせを受けたりするのです。 御子が三歳になると盛大な袴着の儀式がとり行われました。一年前に行った一の宮の袴着の儀式以上に贅を尽くしたため、帝は御子を世継ぎとするのではないかと、弘徽殿の女御は気が気ではありません。 心労がたたったせいか御息所はその夏体調を崩してしまいます。宮中に死の穢れがつくことを忌みきらう習わしから、重い病に罹った女官は後宮を退出するのが常であり、御息所も帝に宿下がりを申し出るのですが、前々から病がちだったことと、御息所を手放したくないという想いから、帝はしばらく様子を見ていれば良いと、なかなか許してくれません。しかし五六日の間に病状はみるみる悪化してしまいます。 帝は御子をそばにおいておきたいと思いましたが、先例の無いことで、御子は実家へと引き取られることになりました。御子はまだ幼く分別が付かないため、宮中の者たちだけでなく、帝御自らが涙に暮れているのをただただ不思議そうに拝している様子が、普通の別れでさえも悲しいのに、母と死に別れたのですから、この限りではありません。 帝は御息所に三位の位を追贈されました。生前に女御と呼べなかったことを悔やまれてのことで、死後はせめて位を上げてやろうとの思いでしたが、この処遇に対しても反対する者は多くおりました。しかし、既に御息所が亡くなられてしまったので、心ある者は御息所の人柄などを思い返して、御寵愛が過ぎたために、冷たい態度を取ってはいたものの、思いやりのあるお方だったとしきりに偲ばれるのでした。 御息所の実家で法要が行われている間も、帝は間断無く使者を送って寄越しました。弘徽殿の女御の一の宮を見る度に、もう一人の御子を思い出されてしまい、帝は弘徽殿に通じていない、腹心の女房や、宮中にいるご自分の乳母を使者として御子の様子をお尋ねになっていました。 秋、野分が激しく吹く季節に、帝は靫負の命婦(溝口健二)と呼ばれている女房を使者として使わされました。忘れ形見の若宮を宮中に呼び戻すためです。靫負の命婦は返答を急かすのですが、祖母の北の方は帝直々の書状に対しても、まだ心の整理がつかないと、若宮参内を固辞します。 若宮が四歳になり、久しぶりに参内しました。美しく成長した若宮の姿をご覧になって、帝は不吉な気持ちになるのでした。 翌年の春、弘徽殿の女御の一の宮が春宮に決まりました。あれほど可愛がっている若宮を世継ぎにするのではとの噂もありましたが、若宮には後見がいなかったこともあり、帝御自身もさすがに無理と思われたのか、一言も申されなかったので、今度は“やはり限界と言うものがあるのだな”との噂さも立ち、弘徽殿の女御もようやく心を落ち着かせるのでした。 北の方は悲しみの晴れる間も無く、いっそ死んで娘の所に行きたいと嘆いておりましたが、その思いが通じたのか、若宮が六歳になった時にお亡くなりになりました。 七歳になった若宮は、内裏に暮らし、読み書きを習い始められましたが、あまりに賢く聡明な様子は、空恐ろしいばかりでした。 帝はどこへ行くにも愛する御息所の忘れ形見の若宮を連れて行かれました。「今はまだ誰にも憎まれることなく、母の無い子というだけでかわいがってくれるだろう」との帝の言葉に違わず、昼間の弘徽殿へのお供の時も若宮は御簾の内に勝手に入って行けるのでした。 この頃、高麗人が来朝しておりました。その使節の中に人相見の得意な者がおりました。帝は若宮の将来に不安を感じていたのでしょう、是非占ってもらいたいと思っていたのですが、宇多帝の遺誡で宮中に呼ぶことが出来なかったため、内密に右大弁の子のふりをさせた若宮を使節の宿舎である鴻臚館の人相見の元に遣りました。 この噂は誰が洩らしたということなく、自然と広まってしまい、春宮の祖父である右大臣(山下啓禎)などは、どういうことかと疑いを持つのでした。 帝は倭の人相見にも若宮を占わせてところ、既に自分が考えていたことと同じ結果だったので「まことに人相見は才がある」とお認めになりました。帝は若宮を一番幸福にしてやりたいと考えました。自分の御世がいつまでも続くわけではなく、有力な外戚の後見も無い若宮を親王にしてしまっては先行きが不安です。臣下として帝に仕えるのが最も頼もしいと思え、若宮には一層あらゆる学問を習得させるようにしました。 若宮の才能はますます開花していき、臣籍に降ろすのは誠に惜しい程でしたが、親王にすると皇位継承権は残されるため、あらぬ噂を立てられてしまうことを恐れたのです。帝は宿曜の賢人に頼んで占わせたところ、また同じような結果になりましたので、若宮には元服の後、源氏の姓を与えることになさいました。 月日が経っても、帝は亡くなった御息所を思い、悲しみに暮れる日々を送られておりましたが、後宮の諸礼式を司る内侍司の次官で先々代の帝(桐壺帝の伯父)の頃から仕えている典侍から、先帝の后の宮が大切に養育している第四皇女、女四の宮の容貌が桐壺の更衣にとても似ているとお聞きになります。帝はもしそれが本当であれば是非とも内裏へ入って欲しいと丁重に申しこまれました。 皇女である女四の宮は藤の植わった局、飛香舎に住むことになり、藤壺の女御(松原綾央)と呼ばれました。大臣の娘である弘徽殿の女御よりも身分が高い藤壺は、なるほど亡き桐壺に似た面影でございました。その上高い身分でもありますので、他の妃たちも、身分違いな者が帝の寵愛を受けるのは憎らしいと許されなかったものの、藤壺に対してはこの人こそ帝の寵愛を受けるのにふさわしいお方と思うようになります。 帝はどこへ行くにも源氏の君を供としていたので、藤壺の元にも頻繁に訪れます。源氏の君が来る度に、慎ましく隠れる若く美しい藤壺の姿を源氏の君はしばしば隙見するようになるのでした。 童子の姿のままに置きたいと望んでいた帝でしたが、十二歳になった源氏の君の御元服の儀式を行いました。 角髪を結った源氏の君の幼い顔は、髪型を変えるのが惜しいくらいに美しかったのですが、大蔵卿が理髪役を勤めました。髻を結うために長い御髪を削ぐ時、帝も“この姿を御息所が見たら”と涙に咽ぶのでした。 加冠役を勤めた左大臣(溝口健二)には、皇女であるお方との間にもうけた娘、葵上(森川理文)がおり、この姫には春宮からも思し召しがありました。しかし左大臣には源氏の君に嫁がせようとの心積もりがあり躊躇していたのです。 宴の席で源氏の君が親王たちの末席に座ると、左大臣が添い伏しのことをそれとなく告げられます。源氏の君は恥かしさもあって、返答ができずにいますと、大臣は帝の御前にお召しで席を立ちます。 その夜、婿となった源氏の君は左大臣の館に罷りました。大臣は若く美しい婿、源氏の君を迎えて大満足です。 帝が傍からなかなか手放そうとなさらないので、源氏の君は私邸でゆっくりすることもままなりませんでした。 元服後の源氏の君を、内裏の女たちは、以前のように御簾の内へは入れてくれなくなりました。藤壺も同様です。藤壺の部屋の御簾の向こうから琴の音などが流れてくると、源氏の君はそれに合わせて笛を吹き、微かに洩れ聞こえる女たちの声などを聞いて心の慰めとしておりました。内裏に五日六日伺い、大臣の屋敷には二三日お泊りになるという暮らしが続きました。源氏の君がまだお若いので、大臣も特別咎めたりはなさらず、ただ婿としてとても大切にしてくださいます。 実家の屋敷は、修理職の内匠寮に他に類を見ないほど立派に改築せよとの命が下りました。元々、大納言の屋敷でしたので、庭の木立や築山の形など趣のあるものでしたが、池を大きく広げて、盛んで立派なものをお造りになられました。 完成した屋敷を訪れ、“このようなところに、理想の人であるあの方をお迎えして、一緒に暮らすことが出来れば…”と思う度に、源氏の君は胸が掻き乱れてしまうのでした。 “光る君”という名は、高麗の人が、源氏の君をお褒めした際に呼んだ名からと言い伝えられています。 |