いろは四谷怪談 かんそう
物語について
判官が刃傷に至るいきさつで、誰に思い入れをしたらいいのか迷ってしまった。
専横な振舞いの師直に嫌がらせを受け、堪りかねた判官というのであれば、まさに判官贔屓が出来るのに、この判官は実は親切な師直の助言に耳を貸さず、自分勝手な行動を取り、結果自ら苦しい立場に立たされてしまう。師直は周囲の者たちが自分に都合の悪い噂を立てているにもかかわらず、判官を助けようとする。そうなると、師直の方が断然いい人に見えて同情すらしたくなる。しかし、師直の親切の目的が、判官と衆道関係を結ぶことにあり、しかもその関係を判官は望んでいないのだということが分かってくると、判官の反抗的な態度も、やり方は問題だが情状酌量の余地があるのではないかと思えてくる。
判官は師直に愛情は感じないものの、噂通り嫌われればあらゆる職務に支障来してしまう。そのために気のある素振りを続けてはきたが、とうとうそれが師直にばれてしまう。師直は兼ねてから目を付けていた、いうことを聞く若狭助へと心を移し、判官を見限って噂通り判官に辛く当たるようになる。
もし、判官が師直のをことを好きであるなら、奪った若狭助に斬り付けるはずで、しかし判官が斬り付けたのは師直。やはりそれまでの我慢がここにきて爆発したものと思われる。
結局どっちもどっち、仕事に私的な愛憎が絡むと、こういうことになるんだなあとしか感じられなかった。
お梅がいつ伊右衛門を見初めたのかは知らないが、その素性を知る浅草寺境内での出会いがとても印象深かった。乳母のお槇に、気に入ったものなら、人形だろうと、かねてから想っている男だろうと、祖父喜兵衛にねだれば手に入るのだと教えられる。お梅が欲しいのは、人も人形も大差が無く、また伊藤家の人間は金で動かないものは無いと信じて疑わないのである。
伊右衛門は民谷家に入り婿した義理があるとはいえ、お岩に対しては惚れている心根があるはずなのですが、それが感じられなかった。貧すればなんとやらで、お岩が子を産み、さらに病身になったことで、疎ましく、嫌気がさし、既に愛想を尽かしてしまったのかも知れない。
伊右衛門はもう既にお岩を見捨てているが、お岩は伊右衛門を頼りとしているところに情愛の擦れ違いがある。
お熊は小玉田に忠勤を尽くすため民谷家に伝わる唐薬ソウキセイを盗んだ小平に対して、“悪で致さずとも盗むことが悪である、忠義で致す泥棒は助かるという天下の掟か”となじり、また質屋から盗まれた掻巻と薬を盗んだ疑いの掛かる小玉田に対して、“忠義一途の小平殿が主人に頼まれ盗んでも、お主に咎はありませぬか、罪を着せ合うが主従でござんすか、いやさ武士道かよ”と詰め寄る。後者の場面では大星もそれを聞いている。大星はこの言葉を聞いて、市井の人々が武士道というものをどう見ているのか考えたのではないかと思う。
民衆にとって、悪は悪なのである。忠義による仇討ちも、ともすればただの人殺しになってしまう。そのため浪士には一点の曇りもあってはいけないと考え、忠義の心は人一倍強いが、盗人の疑いを掛けられた小玉田を外したのである。
大星本人も判官が刃傷に至った事由を知らずにいる。しかし世間に噂されるような、単なる短慮人ではないことは身近にいる者として知っているため、忠義というよりは情義から亡き主君の本懐を遂げようとしているように思える。
伊右衛門は、主君への忠義も無く、親への忠孝も無く、妻や子への愛情すらも無く、ただひたすら虚無的に生きている。伊藤家のお梅との縁組も、私欲があるという感じには見えず、むしろ強欲な人間たちに引きずられるようにして転落していく。
伊右衛門自身に、主君のため、または親や子のためにという強い情が無いために、お岩(原作では父親を伊右衛門に殺され、そうとは知らずに父を殺した者を討ってもらうために結婚した)や小平、小玉田らの態度が目障りに思え、またその者たちの心の拠り所や生き甲斐を踏み躙ろうとする。主人小玉田のために命を捨てようとする小平を嬲り殺した時に初めて、伊右衛門は自分の内にそうした負へと暴走する私欲があることを実感したのだと思う。
他人を蔑ろにする態度が師直と重なり、恨みを残して死んだ小平には判官の想いが重なる。
小平は伊右衛門に斬り付けて恨みを晴らすが、大星本人には伊右衛門に対しても、師直に対しても怨恨は無かった。大星に重なるのは、お岩の望んだ安穏な終生を遂げたかったという無念だけであった。
伊右衛門とお岩は、殺した者、殺された者という縁に永劫に繋がれ、冥府をさ迷い続けるのである。
作品について
オープニングの紗幕にタイトルを映すテクは『阿修羅城の瞳』から?
色んなセットに使われる市松椅子は『シャンソマニア』から?
近習の者たちの衣装は『泉鏡花の天守物語』から?
21世紀になってから劇団内で使ったものや、客演などで影響を受けたものなどは、そこかしこで使っているように見えたのですが、やはり、“定本”と区切りを付けた20世紀版の名残のようなものは無かったように思います。
オフィシャル掲示板で“前の『いろは〜』も(も、と断ってる)良かったのに”というような意見があると、それよりもまず今を評価して欲しいという意味合いのお返事が付いていたようですが、20世紀版を観たことのある者は、どうしたって比較してしまうものですし、昔の思い出は美化されるものです。
わたしは今回の『いろは〜』と、20世紀版は直に比べられるものじゃないと思っています。
20世紀版は何度も何年も公演の回数を重ねて、煮込みに煮込まれて、円熟味を確立した、老舗のうなぎダレ。または継ぎ足し継ぎ足し煮込んだ、洋食屋のドミグラスソースのようなものだったと思うんですね。継ぎ足し継ぎ足しの作業はさらに美味しくするということも同時に行なわれているとは思いますが、美味しさをずっと維持し続けるという作業に専ら力が入ってしまうものだと思うんです。だから、『定本いろは〜』で今までのものを全て使いきって、今回、また新しい材料を揃えて煮込み始めたタレ、またはソースなんだと思うんですよ。まだ色んなものがぶつかり合って、クセや雑味などが目立っている段階であるという気がします。
昔の味のままでやっても良かったんじゃないかという考え方が、わたしも無いわけではありません。しかし、『リバイバルいろは〜』ではなく、『新生いろは〜』であることにこだわった加納さんの決意がこの作品にはあるのではないかと、東京楽日を観て感じました。
今を評価してという気持ちに余裕が出来てきたら、いつの日か公演中一回くらい天地会的に、昔はこんなこともしてたんですよという、リバイバルなどをして遊べるような作品になっていくことを望みます。
シナリオについて
毎度思うことなのですが、シナリオ通りの舞台って観たことが無い!稽古が始まって、演出が入る段階でどんどん変わっていくのでしょう。その変わり様が楽しめるので、シナリオが売られていると必ず買ってしまうのですが、今回は、ラストの部分、お岩が倒れている伊右衛門に口付け云々という場が無くなっていたので、最初に考えていた解釈が全く変わってしまいました。
キリスト教の結婚式では、“死が二人を分かつまで”というように、死んだらどんなに愛し合っていたとしてもお別れ、二人の関係はチャラになってしまうのです。しかし、仏教では因縁によって果報が決り、今の世は、前世に行なった因果から決った結果であり、今の世で行なった因縁は来世での果報となると定まっているのです。
伊右衛門とお岩は生まれ変わり死に変わり、未来永劫に離れられない因業で結ばれているのです。
そう考えると、20世紀版のいろはという前世からの因縁により、今回のいろはが生じたのは因果律に則っているようにも思えます。
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