伯爵の釵
原作:泉鏡花
脚本:あしゅけ
登場人物
∴ ∵
村井紫玉(帝都劇団の看板女優)
玉野・玉江(紫玉の女弟子)
父・娘(柳の茶屋の親子)
稚児、実は白山剣が峰、雪の池の姫神
坊主(姫神を恋慕う眷属)
料亭、万松亭の亭主、女中、若衆等
男爵、鎌倉殿(県の成り上がり豪族)
白丁の下男(男爵の下僕)
金方(出資者・プロデューサー)
劇団の役者、裏方等
県の顕官、勲位の人々
神主、神官等、伶人(雅楽奏者)
観客、観衆多数
伯爵(若き貴公子)
I県K市
真夏正午。城の天守閣を望む。
城の手前。鬱々とした黒い森。
激しい蝉時雨。
視線は一片の雲も無い青空をバックに、遥か白山の遠景に移動。
ある家の一室
鏡台の前にて、母親らしき女に髪を梳かれる、年頃五つ・六つの少女。肩上げした白い着物。水色の帯(流水柄銀刺繍)。女の顔は見せない。女の着物、袖と膝の辺りまで見える。水色の紗。
女の手により、少女の髪は振り分けられ、青いリボンで結ばれる。
少女、振り返り、女に向かって恭しく手をついてお辞儀。
庭の竹林、風にザワザワとなびく。
K市
高台より見下ろした市内一の大通りの景色。
行き交う車や市電、人々は立ち昇る陽炎でゆらめいて見える。
水中
水面を上にゆらゆらと光が差し込む。
不意に水面よりプラチナの釵が泡沫とともに落ちてくる。水深が増すに従って光弱まり溶暗。
K市
夕刻。幾分暑さも凌ぎやすくなり、町に繰り出す人々も増えた繁華街。
大通りの突き当たりにある大劇場。
迎賓館を模して建てられたような洋館造りの建物前を、通行人が噂をしつつ、しばし足を留めるなどして、羨ましそうに看板や中を覗いたりする。
正面出入口の両脇には、近代的な建物とは趣を異にした、色取り取りの幟旗が立てられ、献上された角樽等ずらりと並ぶ。
そして“本日千秋楽”、“完売御礼”と大きく筆書きの札が貼られた看板には、主演女優の村井紫玉演ずる異国の女王姿の似顔が大きく描かれている。
劇場内
舞台の上では今まさに紫玉扮する異国の女王自害の場面が演じられている。(モデルはシェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」)
客席に犇く観客たちは、息を呑んでクライマックスを見守る。
紫玉の一言一句、一挙手一投足に注目する客席と舞台裏。
紫玉(クレオパトラ)「…さあ、恐ろしい奴、お前の鋭い歯で、この命の結ぼれを一噛みに絶ち切っておくれ。しっかりおし、幾らでも怒るがよい、早く済ませておくれ。ああ、お前に口がきけさえしたら、あの、大シーザー殿をからかってもらえたろうに、頓馬め。まんまと鼻を明かされたではないかと!」
玉野(カーミオン)「おお、暁の明星、クレオパトラ様!」
紫玉「静かに!見えないのかい、この胸の児が、乳を吸うて乳母を眠りに誘おうとしているではないか?」
玉野「おお、裂けてしまえ!おお、胸も裂けるがいい!」
紫玉「麻薬のように快い、空気のようにやわらかな、この身をやさしゅう…おお、アントニー…そうだ、お前も抱いてやろう。(別の一匹を胸に当てがい)なぜ、留まって…おらねば…なら…ぬ…の…か…」
クレオパトラゆっくりと、崩れるように、玉座に持たれかかり、そのまま息絶える。
玉野「この酷い世界にと?おっしゃるとおり、では、最後のお別れを!幾らでも手柄にするがよい、死の神、類いない女人を、こうして虜にしたのだから。柔毛のような、その窓の、(目蓋を閉じてやりながら)戸をお閉めなさいまし、金色の日輪も二度と再びこの尊いお目に影を落とすことはない!お冠が曲がっている、直してさしあげましょう、その後でゆっくり遊ばせていただくとして──」
幕が降りる。
一呼吸置いて、激しい拍手喝采に場内が包まれる。
劇場前(数十分後)
正面口からは、芝居を観終えた観客たちが未だ興奮冷め遣らぬ様子で、ゾロゾロと出てくる。
皆口々に紫玉の芸に感心し、かつ絶賛している。
楽屋裏
楽屋に引き上げる紫玉と、それに付き添う女弟子の玉野、玉江。玉江は浴衣姿で、手拭いを紫玉に渡し、後に続く。
紫玉はここでも女王然とした態度。
途中すれ違う他の役者や裏方との挨拶も、ただ微笑み、会釈するのみ。誰もが紫玉に道を開ける。雑事は女弟子等に任せ、軽く柔らかな足取りながら、誇らしげな様子は、全盛の女優の態度としては当然であるが如く見える。
大部屋
各々鏡の前でドーランを落としながらの雑談。
役者壱(衛兵役)「…そりゃあ確かに今の方が客の受けはいいが…」
役者弐(同じく衛兵役)「ああん?」
役者壱「どうにも尻切れ蜻蛉じゃねえか」
役者弐「みんな太夫を観に来てるんだ。太夫の姿さえ拝めりゃ、満足でかえって行くのさ。尻切れなんて知ったことか。」
役者壱「だがな…」
別の楽屋
仏頂面でタバコを吸っている、オクテイヴィアス・シーザー役の役者。既に次回興行先に向かう支度を済ませている。
大部屋
役者壱「…とりを勤める気でいたのが、話が違うと、俺たちに当たられても…」
役者弐「そういやあ、カーテンコールにも顔を出してないっけ」
役者壱「このまま、帰られでもしたらどうするんだ」
役者弐「(にやりとして)俺、シーザーの科白なら入ってるぜ」
役者壱、驚き、呆れ顔になる。
楽屋裏
にこやかな表情の紫玉。
楽屋前
紫玉の楽屋の前には男爵の下僕が立っている。
紫玉は気づかれぬよう、さりげなく持っている手拭で汗を押さえる振りをして顔を隠すと、眉をひそませ舌打ちする。そして顔を上げると、莞爾と微笑み、相手にうむを言わせず、すれ違い様に、
紫玉「旦那様にお伝えになって。明日のお約束、楽しみにしておりますって」
紫玉はそのままプイと楽屋に入ってしまう。
下僕は紫玉の態度にムッとし、楽屋に飛び込みそうな勢いなのを、玉野が遮り、
玉野「(慇懃な口調で)今日は楽で、師匠も大変疲れておいでですから、どうか、お引取り下さいませ」
下僕は出鼻を挫かれるが、玉野がぐっと押さえて、潤んだ瞳で下僕を見ているのに気付いて、鼻息は荒いものの、楽屋口の方に玉野と出て行く。
楽屋内
紫玉、玉江に手伝わせて冠、鬘、衣装を脱ぎ、浴衣に着替えて、ホッと一息つく。
紫玉「(外を気にしつつ)もう、行ったかしら」
玉江「見て参りますわ」
玉江、衣装を衣裄に掛け終え、部屋を出て行く。紫玉一人になる。
鏡台に映る腰から上の様子に目を遣り溜め息。そして鏡台に寄り、抽斗を開く。
釵のアップ。鸚鵡を彫刻したプラチナの釵。翼に金剛石(ダイヤ)を散りばめ、目は血髄玉(ブラッドストーン)、嘴と爪には緑宝玉(エメラルド)の象嵌を施した美しい細工。それを手に取ると、愛しい眼差しで鸚鵡の細工を見詰める。
玉江「(しばらくして、嬉しそうに入ってくるなり)玉野さんがうまく外に追い返して下さったみたい」
紫玉「そうかい」
玉江「(紫玉の手にした釵を見つけ、冷やかすように)あら、伯爵様っ!」
紫玉「(少したしなめる口調で)玉江さん」
玉江、ペロリと舌を出すが、行儀悪い癖と心得ていて、慌てて口に手を当て、すまし顔になる。
紫玉、釵を抽斗にしまう。玉江は紫玉が湯に行く支度を始める。
玉野、髪の乱れを直し、袷を気にしながら戻ってくる。一呼吸して楽屋に入る。下僕との関係を匂わせる。
紫玉は薄々気づいている。玉江は知らない。
翌日。昼近くの市内
漫歩く紫玉。束ねて巻き上げた髪には件の鸚鵡の釵。薄化粧に薄紫の着物。白の博多帯から、緋塩瀬の煙管筒がぶら下がっている。素足に花色の鼻緒の桐下駄。バテンレースの舶来物風の日傘を肩に載せ、時折クルクルと揺らしながら、俯きがちの目線。
向かう先は景勝地として有名な公園。
大通りから、わざと裏小路に紛れ込む。
低い土塀から、瓜や茄子の畑が見える、荒れた屋敷町を通る。誰一人行き合わない。
白い蝶が不意にスッと、紫玉の目前を横切る。吃驚して擦れ違うのを歩を止めて見送った後、莞爾と微笑み、また歩き始める。
土塀の崩れた屋根から溢れ咲いている百日紅の枝に日傘の先が当たり、仰ぎ見て、
紫玉「御免なさい」
と、謝る。
石垣の草むらに棄ててある瓜の皮が、足が生えて歩き出すかのように見え、実際、ガサガサと音を立てたように聞こえて、
紫玉「あれ…」
サッと飛退き、また、何事も無かったように歩き出す。機嫌は至って上々。
浦安神社
日傘を掲げ、姿勢良く、じっと何かを見上げる紫玉。その視線の先には樹立の生い茂る小山のような公園が、こちらにのしかかってくるような迫力。
視線を降ろして正面に向けると、公園に向かう坂の上り口手前には立派な鳥居の神社がある。玉砂利は陽の照り返しに光って、一面白い布を広げたような上に、百日紅の花が点々と零れ落ちている。
お宮の正面の階の傍らには紅の手綱に朱色の鞍を置いた、作り物の白い神馬がぽつんと立っている。
紫玉が鳥居をくぐる時、鳥居の柱にその姿が紫色の影となって映る。
境内に入り、社を横目に、見通しになって公園への坂道を目指し歩いて行く。
途中、屋根囲いした大きな石の御手洗の手前で、ふと立ち止まる。玉砂利の照り返しが眩しく、目を細めつつ、暗い御手洗の屋根の下を見る。
小さな影が御手洗の周りをチラチラと廻っている。
日陰の暗さに目が慣れ、ようやく見とめたその影は、一人の稚児である。
先刻の髪を梳かれ、リボンを結んでもらっていた少女が、御手洗の廻りをチラチラと廻っては行きつ戻りつしている。稚児は伸び上がって、御手洗の縁に手を伸ばしている。
紫玉はその不思議な行動に興味を示し、御手洗に近づく。
紫玉「一寸…何をして居るの」
稚児、振り返って紫玉を見上げる。田舎の子には珍しい、美しく整った顔立ち。そして初対面の大人にもはにかんだり、怖じることが無い。澄んだ瞳を紫玉に向ける。
稚児「水が欲しいの」
紫玉、稚児の不可解な行動の理由が分かった表情。稚児は水が飲みたいのだと。石の御手洗の縁に置かれた柄杓に、稚児の背では届かない。
稚児「(柄杓に手を伸ばしながら)あれが、取りたいの」
紫玉、稚児のあどけない仕草に、思わずフッと笑みがこぼれる。
紫玉「あら、こうすれば仔細はないよ」
紫玉、日傘をすぼめ、稚児の横に進み、半身を斜めにすると、御手洗から溢れかかる水の一筋の雫を紅い唇に請け、飲んで見せる。
紫玉「(身を起こし)ねえ、お前」
紫玉、日傘とともに握っていたハンカチで、濡れた口元を軽く押さえ、稚児にもそうやって水を飲むことを勧める仕草。
稚児、まじまじと紫玉を見上げる。
稚児「(少し咎めるように)手を浄める水だもの」
紫玉、自らの無作法な行為を指摘され、しかもそれが子供であることに内心ムッとする。しかし子供相手に本気で腹を立てる積もりも無く、その場に居るのはきまりが悪いといった程度の不快感。
本当は自分が大人気無い事をしたのだが、逆に子供らしくない稚児をいささか非難するような口ぶりで、
紫玉「いやにお茶がってるよ、生意気な」
稚児の頭を軽く掌で叩くと、日傘を勢い良く広げ、屋根の外に出て、境内を横切り、見返りもせずに坂を上っていく。
紫玉の肩越しに御手洗の横に佇み、じっと見ている稚児。
紫玉の姿が見えなくなると、稚児は再び柄杓を取ろうと背伸びを始める。しかし、相変わらず手が届かない。
柳の茶屋(数十分後)
葦簾の掛かった茶屋の入り口より奥。座敷の一隅にて憩う紫玉の姿。客は紫玉のみ。
店の奥には赤い襷と前掛けをした娘が座す。そのすぐ近くには、半白髪で甚平姿の父親が池に向かって座り、内職の網すきをしている。
紫玉は茶托に湯呑を置くと、煙草盆を引き寄せる。煙管筒の紐をゆっくりと解きつつ、考え事をしているというよりも、心此処にあらずの様子で、筒の中から金の煙管を取り出す。
紫玉の記憶
先刻の稚児の顔。頭を叩いた時の様子がスローモーションで。
柳の茶屋(同)
ふと我に返った紫玉は、稚児を叩いた手を眺める。確かに叩いたはずが、その感触等が全く残っていない。神社の御手洗で起きたことが、夢のように感じられる。
気を取り直して、火皿に刻み煙草を詰め、青磁の火鉢の灰を探り、火を付け、青い息を長く吐きながら、煙の行方を眺めつつ、またぼんやりと稚児のことを考え始める。
紫玉「(独り言)七つか六つぐらいな、色の白い上品な…男の子にしては、ちと綺麗すぎるから女の子…だとリボンだろうね…青いリボン。リボン?鉢巻だっけ…麦わらに巻いた布だったろうか…色ははっきり覚えているけど…」
稚児の記憶が、思い出そうとすればするほど遠退いていき、青いリボンの色だけが鮮やかに脳裏に残っている。
舌についた、煙草の脂の苦さに眉を顰めた後、小首を傾げ、顎に手を遣る紫玉。
娘は遠慮がちにだが、紫玉の少し芝居掛かった仕草にうっとり見入っている。
紫玉「(娘に向かって)ねえさん」
娘、突然声を掛けられ、少しどぎまぎする。
紫玉「町から、此の坂を上る処に、お宮がありますわね」
娘「(嬉しそうに)はい」
紫玉「何と言う、お社です?」
娘は姿勢を正し、礼儀良く、片手を畳につける。
娘「(顔は紫玉に向けたまま、上半身を少し乗り出すような前屈みにして)浦安神社でございますわ」
紫玉「(微笑みながら相槌を打ちつつ)何神様が祭ってあります?」
娘「(詳細な謂れは知らぬ様子にて、答えに窮し、頬を染め、傍に居る父を小声で呼ぶ)お父さん、お父さん」
父親は娘に呼ばれると、急いで眼鏡を外し、手にしていた道具を作業台に乗せると、紫玉に向き直り、丁寧に一礼する。
父「ええ、(言い慣れた様子で)浦安様は、浦安かれとの、そのご守護ぢやさうにござりまして。水をばお司りになられます、竜神と申すことでございます。(後ろに控えた娘に向かって)これの、太夫様にお茶を替えて差し上げぬかい」
娘は慌てて立ち上がり、奥に引っ込む。
紫玉も思いもよらぬ場所で、隠者めいた老人に“太夫”と呼ばれたため、背筋が伸び、衣紋がキュッと締まる思いをする。
父親の方に向いて、上を見ると、神棚には、自分の舞台衣装姿の写真が置かれている。
紫玉「(改めて)そして…」
娘、湯呑を取り替え、また奥に引っ込む。
紫玉「(朗らかではあるが、先刻と違って、少し慎ましやかに)竜神だと、女神ですか、男神ですか」
父「(よくぞ聞いてくれたという様子で)さ、さ」
娘、お盆だけ持って戻ってくると、父親の後ろに座る。
父「(膝に手を置き)其の儀は、とかくに申しまするが、如何か、いずれとも相分かりませぬ。この公園のずっと(手振りで)奥に、真っ暗な巌窟の中に、一ヶ所清水の湧く井戸がござります」
巌窟の中
父「(声のみ)古色の夥しい青銅の竜が蟠って井桁に蓋をして居りまして…」
井戸の上の竜。浦安神社の御手洗にある竜頭と似ているが、苔生している感じなどから、普段は全く人の立ち入らない場所であることを思わせる。
父「(声のみ)金網を張り…」
次第に井戸から遠退いていく。
父「(声のみ)みだりに近づいては成りませぬが…」
更に後退する。
父「(声のみ)“霊沢金水”と申しまして、此がためにこの市の名前が起こりましたと申します」
巌窟の外
立て札に市の名の由来書。
父「(声のみ)此が奥の院と申す事で、ええ」
柳の茶屋
父「貴方様が御意の浦安神社は、その前殿と申す事でござります」
紫玉は話を聞きながら頷く。
父「御参詣をあそばしましたか?」
紫玉「(急に問われて)あ、否」
紫玉が目を逸らし、店の入り口の方に向けたので、しばし言葉が途絶える。
紫玉の記憶(想像)
稚児の様子。柄杓に手が届かず、まだ、御手洗の所に佇んでいる。
柳の茶屋
紫玉、稚児を哀れに思う表情。柄杓くらい、手渡してやれば良かったと思い始める様子。
父親はそっと作業台に戻るが、内職は再開せず、娘とともに紫玉を見守っている。
一層の蝉時雨。
槐榎の大木
店の手前に生える大木。
その向こうに伸びる横径の中途に、廂の朽ちかけた空き家。入り口に煤けて埃をかぶった看板がだらしなく立て掛けてある。
近寄って、かろうじて読める“ふきやからくり”
数年前の同じ場所
夕方、提灯が燈り、様々な屋台など市が並び、往来の人出も多い。
人込みの向こうに、綺麗な看板の掛けられた、吹矢機関の店。
正面の黒い雛壇の上に、点々と並べられた、大小様々な的に、客が矢を吹く。的に当たり、コトリと落ちると、ヒュウドロドロと笛や太鼓が鳴り、灯りが暗くなると、店の上部、左右のあらゆる場所から化け物があらわれて、客を驚かせる仕組みになっている。
廂合から逆さにぶら下がる幽霊の、ばっさりと振り乱した髪。壁の穴から首を出す見越入道。拵えの黒塀の前にうっすりと透けて立つ雪女。道端の石地蔵の横に子供を抱いて佇む産女鳥。流灌頂の波張りの上を伝い歩く、一つ目の豆腐買い小僧。
特に小さな的、“生霊”と掛かれた札の真ん中を客の若い男が吹き当てると、眼前の床板がガラリと回転し、大松茸を抱き、緋の腰巻をしたおかめが現れて、くるりととんぼ返りする。腰巻が捲れ、秘所が露になる。そして四方に張った綱が揺れると、鐘や太鼓が一斉に鳴り響く。
男の連れの若い女が顔を隠すように男の腕にしがみつき、周囲の男たちはどっと歓声を上げる。
吹矢機関の現在の様子
波張りは所々が綻び、藪畳は倒れ、石地蔵は斜め仰向けに反って、見る影も無い寂れ様。
柳の茶屋
哀れな様子を目にしながらも、とりわけ感慨深いというでもなく、ただぼんやりと見ていた紫玉の表情に微妙な変化。
空き家の軒の土間
こちらに背を向けて蹲る僧形の者。ボロボロの墨染めの麻法衣。鼠色に薄汚れた、鬱金の布に三味線らしきものを一挺包み、盲目の琵琶背負に背負っている。その形は乞食のように薄汚くみすぼらしい。
漂泊の門附け芸人が敗竄した姿か、それが空き家の土間でもぞもぞと動いている。
柳の茶屋
乞食坊主から目を逸らし、眉間に皺を寄せ、深く嘆息を漏らす紫玉。
鬢の後れ毛を掻いた時、件の釵に指が触れる。紫玉は釵を抜くと、脚を返し、煙管の火皿に付いた脂を浚い始める。
空き家の軒の土間
乞食坊主、引き攣れるように肩を揺すり、左側の盲いた方の顔から振り向き、柳の茶屋を見遣る。顔を引き傾け、紫玉の様をじっと視る。
柳の茶屋
煙管を掻く紫玉。
空き家の軒の土間
坊主は杖を突き、前屈みによたりと立ち上がる。
柳の茶屋
変わらず、煙管を掻く紫玉。
径
杖を地面に突き立てながら、たどたどしい足取りで、木下闇に沿って蠢くようにゆっくりと坂を降りてくる坊主。
乾いた土の上、脚を引きずる音、杖を突く音。次第に大きくなる。
坊主の膝から下の映像。
城の方へ去るかと思われたのが、池の辺の道に着いて立ち止まり、のろのろと後退りをするような態勢で向きを変え、茶店の方に立ち直ると一息吐く。
柳の茶屋
坊主が去ったものと思い、無防備に顔を上げる紫玉。予想に反して、視界の真正面に坊主の姿を認めてしまう。紫玉は眉を顰める。距離は五間先辺り。
路上
坊主は紫玉に向かって、ぐったりと叩頭する。
柳の茶屋
紫玉は知らない振りをして、煙管をしまうと、釵に俯き、懐紙を出し、舌で一枚捲り取り釵の脚を拭う。髪に戻そうとしたその時。
坊主「太夫様」
ハッと驚いて顔を上げる紫玉。
坊主が茶屋の敷居の土間に跪いている。
紫玉は声も出せない。
紫玉「…」
坊主「(顔を伏せたまま、懇願するように)お願いでござります。…お慈悲ぢや、お慈悲、お慈悲…」
坊主はジリジリと紫玉に擦り寄ってくる。
紫玉は上がり框に立て掛けた日傘に坊主の襤褸法衣の袖が触れそうになるのを横目で見て、そっと手元に引く。きれいに掃かれた土間の土の上に、傘の先の筋がつく。
紫玉、茶屋の父娘に助けを求めるように目を遣る。
父と娘は立つ気配も見せず、静かに紫玉と坊主の様子を見守っている。
池の汀(数十分後)
やや険しい表情で、日傘を投げやりにさし、釵の鸚鵡の羽の部分をつまんでぶら下げて歩く紫玉。
行き先には、池に張り出した四阿と、その手前には八橋と飛び石。
再び紫玉の険しい顔。
柳の茶屋(時間戻る)
坊主「(土下座したまま)お慈悲、お慈悲」
紫玉「(坊主の態度に些か哀れみを感じて、それでもきっぱりと)何ですか、お金?施与?」
紫玉はとにかく何でも無心するものを与えて、早く追い払いたい気持ちで、帯に挟んだ小銭入れを出そうとする。
坊主「(滅相も無いという風に首を横に振った後、改まって)お禁厭をして遣わされい」
紫玉、意外な無心に怪訝な様子。
坊主「虫歯が疼いて、堪え難いでな…」
右手は地面に突き、左手で顔の左半分を覆うようにしてそろそろと面を上げる。
白く濁った左目、目袋から頬、唇にかけて醜く腫れた様子が指の間から覗く。今にも汚い汁が垂れるか、膿んだ肉が中から崩れてしまうのを掌で、ようやく押さえているといった様子。
紫玉は坊主が見ているので、あからさまに気持ち悪いという表情が出来ず、次第に胸がムカムカしてくる。なるべく坊主の顔を見ないよう、視線を逸らす。
坊主「手足に五寸釘を打たりょうとても、恁くまでの苦悩はございますまいぞ、お情けぢや、禁厭うて遣わされ」
紫玉「…禁厭えといって、わたしにどうしろと…」
坊主「別儀ではございませぬ。太夫様のお手にした、其のお釵」
紫玉、坊主に釵を指差され、自分でも見ながら、キュッと握り締める。
坊主「そのお釵を私の歯のうろへ挿し入れて欲しいのでございます」
紫玉、訝しげに坊主を見る。
坊主「(途中ハッ、ハッ、と苦しそうに息をしつつ)太夫様お手づから。…竜と蛞蝓ほど違いましても、生あるうちは私じゃとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明に、照らされますだけでも、此の疼痛は忘れられましょう」
紫玉は観念して、スッと立ち上がる。
紫玉「そうまで仰るなら、貸しましょう。お拾いなさい」
釵を落として拾わせようとする。が、坊主、それを制して、
坊主「ああ、いや、太夫様、お手づから。(不遜な願いに改めて平伏して)…貴女様の膚の移り香、脈の響きをお釵から伝え受けたいのでございます。貴女様の御血脈、それが禁厭に成りますので…、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて…(ゆるゆると顔を上げると)はい、はい、はい」
坊主は四つん這いで近寄り、歪んだ顔を紫玉に向け、あんぐりと口を開ける。
紫玉はもうどうにでもなれと肚を決め、土間に下り、やや中腰で坊主に近付き、釵の脚を坊主の腫れた口に挿し入れる。
坊主、犬蹲になって喘ぎながら釵にむしゃぶりつく。
坊主の不精髭の口元、釵、それを握る紫玉の白い手のアップ。
坊主の生臭い鼻息が紫玉の手に吹きかかり、堪らず紫玉が身を引くと、坊主は釵を抜くまいと立ち膝に成る。勢い釵が膿んだ頬肉に刺さり、ズブズブと嫌な感触が紫玉の手に響いてくる。
紫玉は息の臭さと気味の悪さに左袖を巻くと、唇を覆う。
紫玉の指を飾るルビーやエメラルドの指輪が釵のプラチナ、ダイヤとともに輝き、坊主の顔を照らす。坊主は見える方の右目を細め、眩しそうにしているが、やがてうっとりと目を閉じ、ぼうっとした顔色で、ダラダラと涎を垂らしている。
紫玉「(堪えかねて)ああ、手がだるい、まだ?」
坊主「(目を閉じたまま)今、一息」
父親と娘の目には、この不思議な光景が、舞台の神秘な場面のように見える。勘に堪えた観客の如く、息を殺し、固唾を飲んで見守るのみ。
池の汀(続き)
紫玉、歩を止めて、右手にぶら下げた釵をちらりと見る。
四阿の方から滝の音。
柳の茶屋
坊主、べったりとその場に尻餅をつき、肩で荒く息をしている。
坊主「(満足そうに)ああ、有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました」
背中の三味線包みがずり落ち、抜き衣紋になったままで、両手を仰向け、頭を低くし、紫玉の爪先を頂く真似をして、
坊主「(改めて)お有難い」
坊主、心付いてやや後退り、
坊主「恁ように穢いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近は却ってお目触り、御恩は…」
手探りで背後に置いた杖を掴み、胸を捩じるように立ち上がりながら、
坊主「(力んでややかすれ声にて)忘れぬぞや」
おぼつかない足取りで茶店を出て行こうとする。
坊主「(口の裡で唱えるようにぼそぼそと)お有難や、お有難や。ああ、苦を忘れて腑が抜けた…」
敷居を跨ぎ、蹌踉状に、紫玉に向き返り、
坊主「あの、そのお釵に…」
紫玉「(ビクッと震えて)えっ?(反射的に釵に目を遣る)」
坊主「歯くさが着いては居りませぬか。恐縮や、(にやりと笑う)えひひ…」
紫玉戸惑いと、怒りと、不快に顔を強張らせ、懐紙に手をかける。
坊主「ちゃっと、お拭きなされませい」
しかし、この坊主の一言で、紫玉は懐紙を掴むのを逡巡う。
坊主が店を出て行き、もう戻ってこないのを確かめると、紫玉は框に腰を下ろし、待ち兼ねたように懐紙を数枚重ね、急いで釵を拭う。
紫玉「(顔を上げ、父娘に)森の径へ行きましたか?」
父と娘は紫玉の挙動にのみ気を取られていた様子にて、紫玉に声を掛けられ、ようやく現実に引き戻された風。
父「(やや慌てて、その場から外を見て、あまり自信無く)へい、大方、然うでございましょう…」
娘は下駄を突っかけて、店の前まで出て辺りを見回すが、既に人影は無い。
紫玉「(拭い終えた懐紙を縒りながら)此の辺を歩行く門附見たいなもの?」
父「(首を傾げて)いえ、ついぞ見掛けた事の無い…」
娘「(付け足すように)跣足でいました」
紫玉、縒った懐紙を灰吹きに落とし、釵を髪に戻そうとするが、鬢擦れの髪に戻そうとしたが、手の撓ふだけで、鼻を突く異臭がして、眉を顰める。
手に持った釵、きらりと光る。
柳の茶屋
池の中から覗き見ているような低い位置。茶店の遠景。娘があちこちと指差し、隣の紫玉に道案内をしている様子。乾いた地面からは陽炎が昇る。
蝉時雨さらに激しく。
池の汀(続き)
紫玉、八橋を渡り、池に張り出して建てられた幾つかの四阿の脇を通り抜ける。障子を開け放ったどの座敷にも人の気配は無く、ひっそり静まり返っている。
黒い羽に青い腹のお歯黒蜻蛉が一匹、葉ばかりの燕子花の間を伝い飛んでいる。
足を留め、じっとそれを視る紫玉の横顔。
溜め息をつき、鸚鵡の羽を摘み持った釵に目を移す。
紫玉の回想(無音)
貴族の邸宅。夜会。庭園を歩く紫玉と傍らに立つ伯爵(貴公子)。
礼装としては、古典的な裾の長いローブ・デ・コルテが妥当だが、紫玉はウェーブの掛かった髪を結い上げ、モダンなアール・ヌーボー調のストンとした丈の短いドレスといういでたち。
伯爵はイブニング姿。髪を撫で付け、口髭もまだ生やし始めたばかりといった感じ。西欧に留学した折に身に付けた、フェミニストなマナーで紫玉に接する。
鸚鵡の釵を贈られた場面。伯爵自ら紫玉の艶やかな髪に釵を挿す。俯いて釵に手を遣り、莞爾と微笑む紫玉。
その姿が噴水の水面に映る。
滝
滝を斜に見上げる池の縁。どうどうと落ちる水の音。
池にやや身を乗り出して、水の中を覗く紫玉。水面には夏の空と池の周りを蔽う木々の深緑が映っている。ミズスマシやアメンボウも見えず、池を覗き込む自分の顔が、白い日傘の中にあり、浮かぬ表情をしていることに改めて気付かされる。
木陰に入り、日傘を畳むと木の幹に立て掛け、爪先立ちに屈む。
左手で右袖の袂を持ち、鸚鵡を握り釵の先をそろりと池に浸す。釵の脚を水の中でゆっくりと揺すると、滝の波紋と別の波紋がうつる。
程よい頃に紫玉、釵を掬い上げ、一振りして水滴を切り、釵を髪に戻そうとする。
紫玉「(思わず漏らす声)あ」
耳の端へも寄せられぬ悪臭に顔を歪め、釵を離すと同じに顔も引ける。
眦を上げ、再び水に浸して洗う。しばらくして持ち上げるが、さらに臭いが増している様子にて、顔に近付けることも出来ない。目尻に朱が走る。
さらに激しく釵を洗う手元。滝の音。真剣な表情。
手まで水に突っ込んで洗うものの、水から上げるなり、悪臭が広がり、釵を摘んだ手指、指輪にまで臭いが染み込んでいく様子に、気持ち悪くなってくる。
紫玉の幻覚
紫玉の視線にて。
先刻の乞食坊主の顔が迫ってくる。猥らに喘ぎながら、紫玉の握っている釵にしゃぶりつく。涎塗れのだらしない口元、不精髭。
坊主はいつしか紫玉の指をしゃぶっている。恍惚の表情。紫玉の指輪の色石が放つ光彩が、坊主の顔に映り、坊主の顔は醜く爛れた様な色に見える。
坊主は紫玉にのしかかり、その手や腕を獣か何かのように舐め回し始める。涎とも膿ともつかぬ粘液が紫玉の白い腕を伝う。
あまりの凄絶さに、気が遠くなる紫玉は、嫌悪と同時に、不思議な感覚にとらわれ始めている。まさに芝居の一場面のように、心が身体を遊離して、絡み合う姿を自ら傍観している感覚。
滝
ハッと目を見開く紫玉。気がつくと、かなり池に身を乗り出し、釵を水に浸している。水の中にあるうちは悪臭もしないが、掬い上げるとまた想像以上の悪臭が鼻を突く。
紫玉、スッと立ち上がりながら、思いきり釵を振り降ろす。
紫玉「(忌々しげに)ええ」
勢い余って釵が、手を擦り抜け、池に落ちる。
トプンとあっけない音。
狼狽し、身体が固まる紫玉の驚きの表情。
水中
きらきらと光りながら落ちていく釵。
滝
樹木の萌黄色を映す水面に、一瞬伯爵の端正な面影が見えるが、すぐに掻き消える。
紫玉「(未練を断つように、ややかすれ声にて)ぬしに、お成りよ」
まだ未練が残る振りで、水面を見詰める。
水中
落ちていく釵。次第に暗くなり、藻の茂る水底に近付くと、ボコボコと泡沫が上がる。何者かの吐く泡の如く、間隔を置いて上がってくる。
滝
穏やかだった池の面が、突然漣立ち、水面に映る木々の葉の一枚一枚が、大魚の鱗のようにざわめく。
池を凝視していた紫玉は軽い眩暈を覚えて少しよろめく。このまま水中に引き込まれてしまうような感覚に捕らわれ、ぞっとする。
縮めた袖を翼のように搏いて移り香を払い様に、急いで池辺から飛退く。
高鳴る胸をそれとなく押さえつつ、注意深く滝の裏崖に敷かれた桟道を渡り、茶屋の娘に教えられた石橋へと向かい歩き出す。
石橋
公園の中でも森を背にして、かなり高台になった場所。
この反橋の中央に立つ紫玉。
背筋を伸ばし、やや伏し目がちになり、ほっと一息つく。幾分落ち着いた心持を取り戻しつつあり、スッと振り返り、眼下に開けた大通りを正眼に見下ろす。
煉瓦造りの高等学校の避雷針。教会の白壁。寺の仏塔。通りを行き交う人々。重たげに走る路面電車。
特に舗装された大通りは、白昼の容赦無い陽射しに焼かれ、陽炎が上っている。
そしてさらに視線を通りの先に向けると、その突き当りには、昨晩まで主役を務めた舞台を上演していた、市内一の劇場。
公演中は夜毎、水晶宮の如く電燭が輝き、己が姿を一目見ようと、観衆の連日押しかけていた劇場が、今こうして遥か遠くに望むと、陽炎と逃げ水のため、蜃気楼の高殿のように中空に浮かび上がっているように見える。
と、緑、紫、紅と、色取り取りの旗の影が空を蔽うかのように、紫玉の目に翻る。何かと見ると、目にする木々の枝々にも、色鳥のような蔭が映る。
蓋し、劇場に向かい、高く翳した手の指輪の玉が見せた幻影であり、それに気付いた紫玉は翳していた手を下ろし、俯き見ながら微笑む。
滝
池の辺の木に立て掛けたまま、置き忘れた日傘。
どうどうと鳴る滝の音。
石橋
踵を返し、軽やかな足取りで石橋を渡り終え、森を通る紫玉の姿は、静かで落ち着いているようにすら見える。
見晴台
森を抜け、紫玉は公園で一番高い広場に出る。石橋の場所からは、森が蔭になって見えなかった、遠く白山の峰を眺め、神仙の形を映す銘木、松、桜、梅の木を、赫と射る日に手廂をして見上げる。
行き交う人も殆ど無く、幸いに忌まわしい坊主の影も見当たらない。
大池
見晴台を降りて、少し離れた場所に大池。
手前の汀に桟橋。朱塗りの小さな屋形船が繋がれている。
紫玉の目に留まったのは、船よりも派手な格好の女二人。玉野と玉江の姿。
紫玉が様子を覗っていると、まずこちらを向いた玉野が気付き、
玉野「あら、お嬢様」
玉野の言葉に玉江も振り返って、そのまま解きかけていた舫い綱を投げ出し、
玉江「お師匠さあん」
媚かしい褄捌きで駆けてくる。
紫玉、ホッとした表情で、笑顔。
紫玉「(弾んだ声で)不思議な処で、と言いたいわね。見物かい?」
玉江、紫玉に走り寄る。蝶が花に戯れるが如き様子。
玉江「(戯けて)ええ、観光団(朗らかに笑う)」
二人連れ立って桟橋まで来る。
紫玉「(冗談で軽くたしなめる感じに)何を悪戯しているの、お前さんたち」
玉野は棹を手にして船尾に立っている。
玉野「お嬢様、おめしなさいませんか?」
玉江「(池の真ん中にある築州を指差し)わたしたち、いまからあの島に行きますのよ」
紫玉「まあ、そんな、勝手にいいの?」
玉野「ええ、もう交渉済みですわ。あの向こう岸の、(指差して)むら萩に庵がございますでしょう?船主はあの料理屋」
紫玉「(なお心配そうに)お前さんに漕げるかい?」
玉野「(手にした棹を水に差し入れて)浅くて棹が届きますもの、仔細はございませんわ。ただ」
紫玉「ただ?」
玉野「一ヶ所だけ、底の知れない深水の穴があるそうなんですけど…」
玉江「(玉野に続いて)“竜の口”と言って、下の滝の伏せ樋に通じているんですって」
二人は気軽に言っているが、紫玉は気になる様子。
玉江「さっき、仕誼に行ったら、料理屋の女中が、わざわざ出てきて“危なくは無いけれどそこだけは除けたが可かろう”って」
玉野「あれ、あすこですわ」
玉野の指差す方を見る紫玉。
築州よりも大分先の北東の方角に、小さな御幣を乗せた、木の板がプカリと浮いている。
紫玉「あそこかい?」
玉野「ええ、でも、島を目指すんですから、近寄る心配はありませんわ」
紫玉「…じゃあ、乗ろうかね」
紫玉、船端に手を掛けるが、決心し切れない様子で、
紫玉「でも、何だか」
介添えしようと先に船に乗り、手を出して待っていた玉江は眩しそうに紫玉を見上げる。
玉江「あら、何故ですえ?」
紫玉「御幣まで立てて警戒した処があっちゃあ、遠くを離れて漕ぐにしても、(玉野を見て)船頭が船頭だから、気味が悪いもの」
玉江、紫玉の言葉が、玉野をからかう冗談と聞こえたらしく、玉野をチラリと見て、クスリと笑う。
玉野「(紫玉の心配性に呆れて)いいえ、あの御幣は、そんなおどかしじゃありませんの。不断は何も無いんだそうですけれど、二・三日前、誰だか雨乞いだと言って、立てたんだそうですの。(空を見上げて)この旱ですから」
紫玉と玉江もつられて空を見上げる。
船上
桟橋を棹が突くと、船はスーッと軽く出る。玉野の棹捌きはなかなか巧みである。
紫玉は船縁の朱色の欄干に、指を組んで頬杖をつく。水面に紫玉の白い腕と、欄干の朱色、そして萌葱に藍を交えた鷁首の翼が映る。
船はスルスルと島を目指す。船首に居る玉江が振り返りつつ、紫玉に話し掛けている。
玉江「…鶴ヶ島と言って、柳の木が植わっている、あの辺りに竜神をまつる祠があるんだそうですのよ」
紫玉「(水面に目をやったまま)竜神…(呟く)」
島まで半分ほど来た時、船や、差す棹の波紋が届くのか、御幣を乗せた板が少しずつ揺れ始め、動き出す。
紫玉「(欄干に頬杖をついたまま、御幣を見詰めているが、心配そうに)大丈夫かい?あすこは渦を巻いているようだがね」
玉野と玉江、御幣を見る。玉野は平気で棹を操る。
玉江「詰まりませんわ。(こちらに向き直って腰掛ける)少し渦でも巻かなけりゃ、あまり静かで、橋の上を這っているようですもの」
玉野も笑う。
玉江「(洒落でもないらしく)玉野さん、船をあっちへやってみないか?」
紫玉、頬を手から離し、玉江に、
紫玉「不可いよ」
玉江「否、何ともありませんわ。それだし、もしか、船に故障があったら、おーいと呼ぶか、手を叩けば、すぐに誰か出てくるからって、女中が言っていたんですから」
紫玉、料理屋の方を見る。群萩の根元の奥まった岸に、先刻は見えなかった小舟が繋がれているのが見える。
玉野「(興に乗ったらしく)お嬢様、船を少し廻しますわ」
紫玉「(焦りつつ)だって、こんな池で助け舟でも呼んだがいい。とんだお笑い種で、末代までの恥辱じゃあないか。あれ、およしよ」
紫玉が止めるのも聞かず、玉野は棹を逆に突き船を廻す。ザブリと波が立つ。
その波が御幣に届くと、クルクルと回り始める。そして、竜の口の辺りとおぼしき所から水が湧き上がり、御幣ごとむっくりと水面が盛り上がる。
驚いて御幣を凝視する紫玉。玉江も、玉野も操る棹の手を止めてじっと見詰めている。
盛り上がった水は一文字に射るような早さで船に向かってくると、波となってザッと鳴る。
波頭は船底を噛み、船は大きく揺れ、よろけた玉野は棹を落として尻餅を突き、紫玉は欄干に、玉江は鷁首にしがみつく。
船の揺れが治まる間も無く、水中から大きな魚が飛び上がる。
ひらりと宙を踊った魚は、鱗を銀色に光らせ、船中、紫玉の目の前にドウッと落ちる。
見事な鯉が、ビチビチと船の中でも跳ね続けている。紫玉は身動きも出来ずに鯉を見詰めている。
玉野「お嬢様っ!」
船尾にいた玉野が紫玉の元に走り寄る。
玉江もそろそろと近付いて鯉を見る。
玉江「鯉?鯉、あら、鯉だ!」
大きく見事な鯉に玉江は驚きながら、愉快そうに手を敲く。
船上の騒がしさに、料理屋より女中が一人出てきて、店の前の小舟を手繰る。
この時、玉野の落とした棹は、鯉が尾鰭に引いた波にさらわれ、ゆっくりと竜の口の方へと流されていく。
石橋(夜)
料理屋“万松亭”の提灯を玉野に持たせての微行。
声「(小さく)…太夫様、…太夫様…」
頭上よりの呼び掛けに紫玉はふと、大樹巨木を仰ぐ。
紫玉「一寸燈を…」
提灯で足元を照らしていた玉野に声を掛けて、その手に自分の手を添えて、木の枝を透かし見上げる。
玉江「どうなさいました?」
紫玉「誰だか、呼んだように思うんだがねえ」
紫玉はなおも樹上を見ている。
玉江「(気味悪そうに)まあ、そんな処から呼ぶ者がございますか」
紫玉「然うだねえ」
紫玉、頭上から瞳をそらす際に、髷に手を遣り、釵に指が触れる。
紫玉「これが呼んだのか知ら(微笑む)」
玉野「あら、お嬢様」
玉江「(怯えて)可厭ですよ」
紫玉「でもね、竜宮へ往来した釵の、玉の鸚鵡なんだもの。(作り声にて)太夫様、太夫様…なんて、(嬉しそうに)物を言おうも知れない」
玉野、玉江、仰山に怯え、一層紫玉に擦り寄る。
紫玉、もう一度釵に触れる。
万松亭
夕刻、蜩の涼しい鳴き声。
座敷。上席に座る紫玉。その脇に控える玉野と玉江。膳が並ぶ。
紫玉の正面に座す亭主。俎板と真魚箸と包丁が置かれ、神事の如く、俎板の上には鯉。
亭主「略儀ながら、不束な田舎料理の包丁をお目に掛けまする」
亭主、真魚箸を構える。
船上
鯉の目線。覗き込む玉野と玉江。
小舟
浴衣の上に紋の着いた薄羽織を引っ掛けた亭主。若衆に島へ渡した綱を手繰らせ、紫玉らの舟に近付く。
船上
若衆が船縁を押さえると、亭主はひらりと乗り移る。
亭主「これはこれは太夫様。(恭しく一礼して)改めて御祝儀を申し述べます。これ、(若衆を呼ぶ)」
若衆、小舟に乗せてきた桶を持ってくると、鯉を抱え、桶に入れる。
亭主「目の下二尺三貫目は掛かりましょう(若衆へ目配せすると、若衆頷く)。恁ような大魚、しかも出世魚と申す鯉魚のお船に飛び込みましたと言うは、類希な不思議な瑞祥。おめでとう存じまする、皆、太夫様の御人徳」
紫玉、女弟子に介添えされて、やや落ち着いた様子。それでもまだ声は出せず、言われるがまま。
亭主「続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸がましゅうござりまするが、従って手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、恁ような心嬉しい事はござりませぬ。尚ほ恁くの通りの旱魃、市内は素より近郷隣国、唯炎の中に悶えまする時、希有の大魚の踊りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣草木に到るまでも、雨に蘇生りまする前表かとも存じまする。三宝の利益。四方の大慶。太夫様にお祝儀を申し上げ、われらとても心祝いに、此の鯉魚を肴に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げとう存じまする。まず、あの島影にお船を繋ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しましょう」
紫玉、あっけにとられている間に亭主は口上を終える。
若衆は鯉の桶を小舟の女中に任せ、屋形船に戻り、早速綱を手繰って鶴ヶ島に向ける。
万松亭(続き)
亭主、鯉を捌く。鯉の身を切る音。
鯉の腹に包丁を入れた時、刃先に何か硬いものに当たり、亭主の表情が変わる。
真魚箸と包丁を置き、裂いた腹に手を入れる。
女弟子が少し身を乗り出す。
亭主、血のついた手に何かを握っている。桶の中でそれを洗う。布巾に載せると、玉江、それを見て、
玉江「まあ…(紫玉の髪と交互に見て)」
キラリと光る釵。
玉野「(紫玉に)お嬢様…」
釵を見つめる紫玉。
石橋(続き)
玉野・玉江「(口々に)太夫様」
紫玉「可厭だ、今度はお前さんたちかい」
ほほ、と笑う紫玉の表情が、スッと硬くなる。
闇の向こうの水音に紛れながら、三味線の沈んだ陰鬱な調子に合わせ、微に唄う声が聞こえてくる。
紫玉「(玉野と玉江に)お待ち。(じっと耳を澄まし)──坊さんではないか知ら…」
紫玉は轟く胸を押さえ、声に聞き入る。
声「じんじやうきよゆうにすみわたる、昆明池の水の色、行末久しく清むとかや」
紫玉「…あの、三味線は」
三味線の音は水の音に掻き消え、紫玉は耳を澄ます。数歩歩を進めたところで、紫玉はまた立ち止まる。
三味線の陰々たる響き。
声「──日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿のことごとしや──」
京都(鎌倉時代)
無音の中に大太鼓のSE。
幔幕の張られた陣の床机に座す鎌倉殿・源頼朝。能面、能衣装。
太鼓の音にて場面切り替わる。
声「──何処にて舞ひて日本一とは申しけるぞ──」
謡曲に乗り、能掛かった動きで梶原登場する。
声「──梶原申しけるは、一歳百日の旱の候ひけるに、賀茂川、桂川、水瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みて候ひけるに、──」
石橋
紫玉は耳を澄まし、じっと袖を合わせる。
琵琶を掻き鳴らす音。
京都
声「──有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受たれ給ふべし、と申しければ、高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、
高僧百人、経を詠む振りあって、
声「其験もなかりけり、又或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を百人めして、──」
石橋
紫玉「(声の主に向かい)御坊様」
紫玉、暗中を透かし、声する方にふらりと縋るように歩み寄る。
声「(蕭びたが力のある声で)燈を消せ」
紫玉「(後ろにいる玉野に手で合図しながら)提灯を…」
玉野「は、(慌てて一度消し損ね、息を弾ませながら吹き消す)」
玉野と玉江はともに寄り添い震えている。
声「──百人の白拍子をして舞はせられしに──」
京都
白拍子九十九人舞った後の振りあって、
声「──九十九人舞ひたりしに、其験もなかりけり、静一人舞ひたりとても、竜神示現あるべきか。──」
頼朝の顔。
声「──内侍所に召されて、禄おもきものにて候にと申したりければ、──」
静御前登場。
声「──とても人数なれば、唯舞はせよと仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲という白拍子を、──」
静の舞う件あって、
石橋
朦朧と薄く鼠色に仄めく向こうに、石の反橋。其の欄干に、僧形の墨の法衣が蹲ると見えるは、胡座を掻いて唄う、件の乞食坊主の姿。形は凄まじい。胸をくしゃくしゃと折り、坊主頭をがくっと俯けて唄い、転軫(三味線の糸を巻いた横木)に掛かる手つきもよたよたとしている。しかし隠れ滝のだうだうと鳴り、風の如くに響く中にも、糸の音は乱れず、唄も遮られることはない。
坊主「──なから舞ひたりしに、御輿の嶽、愛宕山の方より黒雲俄に出来て、洛中にかかると見えければ、──」
紫玉は腰を折り、地に低く居て、恭しく唄に聞き入る。玉野と玉江もその後ろで蹲んでいる。
坊主「──八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、扨こそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給りけると、承り候。──」
坊主、唄を留めて暫し黙った後、紫玉に向かって、
坊主「太夫様」
紫玉「は、(呼吸をひいて答える)」
坊主「癩坊主がねだり言を肯うて、千金の釵を棄てられた。その心操に感じて、些細ながら、礼心に密と内証の事を申す。貴女、雨乞いをなさるが可い」
紫玉の目を見開いた表情。
坊主「──天の時、地の利、人の和、まさしく時節ぢや」
玉野の着物の袖を引っ張る玉江、首を振り、ちゃんと聞くのだと示す玉野。
坊主「──ここの大池の中州の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。…袴、練衣、烏帽子、狩衣、白拍子の姿が可かろう。衆人めぐり見る中へ、其の姿をあの島の柳の上へ高く顕し、大空に向かって拝をされい。祭文にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣り、雷を放ち、雨を漲らすは、明午を過ぎて申の上刻に分毫も相違ない。(遥か彼方を見るように顔を上げ)国境の山、赤く、黄に、峰嶽を重ねて爛れた奥に、(うっとりと)白蓮の花、玉の掌ほどに白く聳えたのは、四時に雪を頂いて幾万年の(心入れ強く)白山ぢや。(紫玉に向かって)貴女、時を計って、その鸚鵡の釵を抜いて、山の其方に向かって翳すを合図に、雲は竜の如く湧いて出よう」
紫玉、身じろぎもせず坊主を見詰めている。
坊主「──尚ほ其の上に、可いか、名を挙げられい」
紫玉には気付かないが、坊主この時ニヤリと笑う。
坊主「(再び謡い始める)──賢人の釣を垂れしは、厳陵瀬の河の水。月影ながらもる夏は、山田の筧の水とかや…」
唄声は次第に小さく、途切れ途切れとなり、やがて坊主は灰色に霞む闇の中に溶け込み、紫玉等三人の前より消え去る。
紫玉は闇に向かって手を合わせると、すっくと立ち上がる。その目には神のお告げを聞いた者の、確固たる自信に満ちた輝きが宿っている。
公園(翌日の昼)
無音で、大太鼓のSEは京都(鎌倉時代)と同じ。
太鼓の音で場面の転換。
前日にも増して、うだる暑さ。
大池の周囲を中心に、大勢の群集が犇めく。
茶屋の父娘の顔も見える。
大池
視線は鶴ヶ島に寄っていく。
島には足代が組まれ、仮の法壇が調い、男爵の定紋を染めた紫の帷幕が張りめぐらされている。島の周囲には幾艘もの小舟と、島に張ったのと同じ幕の張られた屋形船が繋がれている。
屋形船の中には、男爵を始め、県の顕官、勲位の人々が揃っている。雨乞いの儀式に臨むというよりは、酒宴の余興を待っているという有様で、高笑いしつつ、盃を空けている。
鶴ヶ島
神主、神官等、伶人は、既に法壇の前に揃い、紫玉を待っている。
金方、男爵に呼ばれ、紫玉の様子を見に走る。
法壇
伶人、演奏を始める。
奏楽の一順した頃、法壇の幕間から柳の葉を揺らし、白拍子姿の紫玉登場。衣装は烏帽子から袴に到るまで、全て男爵家の什物。袴の裳裾をたなびかせ、足代の階を上り、法壇の正面にすらりと立つ。
群集
どよめき。そして張り詰めた緊張。
屋形船
自慢気な様子の男爵。
法壇
紫玉、ゆっくりと虚空を見上げ、恭しく三度拝する。
法壇の根に、大きな傘を畳んで肩に担いだ白丁の下男が控える。男爵の内意で、雨が降った際、歴史的な什物を濡らさないための用意だが、まるで花魁道中が如き様子。
大池
風も吹かず、余りの人出に蜻蛉も飛ばない。
法壇
紫玉を中心に、ぐるりと視線が回る。
紫玉、頤に結んだ、烏帽子の紫の纓を解き、結び目を胸に、烏帽子を背に掛ける。
伯爵の釵を抜くと、意気込んで一振り振る。黒く艶やかな髪が颯と捌け、烏帽子の金に裏透ける。
釵の脚を持ち、鸚鵡を空に翳す。鸚鵡の先には雪を頂いた白山の峰。
空には毛筋程の雲も見えない。
屋形船
男爵、やや不機嫌そうな、面白くもないといった表情。
群集
サワサワと声がし始める。空を見上げ、雨の予兆を探したりする者も出てくる。
法壇
何事も起こらないまま、壇を降りるわけにもいかず、紫玉は翳した釵を捧げ持ったまま、法壇を二廻り三廻りする。これは巫女のようで威厳を損じる行動。
群集はまだ気づかないものの、紫玉自身焦りの色が見え始める。
気をかえて、屹となり、虚空に向かって、釵を投げる。
釵
キラキラと光りながら舞い上がり、乾いた土の上に無機的に落ちる釵。
群集
声「大神楽!」
壇上
声の出所は見ないが、野次の声に緊迫の表情になる紫玉。
群集
さらに罵声は重なる。
声「練馬大根っ!」
声「おかめっ!」
声「雲の内侍!」
声「雨しょぼを踊れ!」
水の輪の拡がりが、嵐の狂う如く、聞くも堪えない讒謗罵詈が雷の如く哄と沸く。
屋形船
激怒する男爵。やおら席から立ち上がる。
蚊帳の裡(昨夜)
行灯の薄明かり。薄緑の蚊帳の中に、男爵と紫玉。
蚊帳を出ていこうとする紫玉を引き止めようとする男爵。
しばしもめる間があって、部屋を出て行く紫玉。
部屋に残される男爵。枕元に用意してある酒をあおる。
屋形船
男爵「(ブツブツと)何が精進潔斎だ…。(船頭に)漕げっ!」
島に走る屋形船。
勢い余って舳先が島に乗り上げる。船の中の人々よろけるが、男爵はお構い無く。
壇上
屋形船の乗り上げた様子にハッとする紫玉。慌てて辺りを見回す。
咄嗟に逃げ場を探す仕草。
しかし逃げ場など無く、法壇を下りる機を失う。
群集
より激しく。
声「状を見ろ」
声「や、身を投げろ」
声「飛び込め」
屋形船
船の上で何やら喚く男爵。
法壇
足代に巻いた幕より、白丁の下僕、男爵の声を聞きつけて、ぬっと身を乗り出し、素早く壇上に飛び上がると、池に飛び込もうとした紫玉を寸でのところで捕まえる。
群集のどよめきと、からかい、嘲りの喚声。
下僕にあっという間に狩衣を剥がれ、袴の紐を引き解かれた紫玉は、薄い襦袢一枚にされ、壇上に崩れ落ちる。
幕の内にて見守っていた玉野、玉江は紫玉の姿に手放しにワッと泣く。
屋形船から飛び降りた金方、苦りきった顔で、ズカズカと法壇に上ってくる。
ぐったりうな垂れた紫玉の肩をむんずと掴んで、上を向かせ、
金方「何だ、状は。小町や静じゃあるめえし」
紫玉、睨み返す気力も無い。
金方、更に紫玉の襦袢の襟を掴み、
金方「増長をしやがるからだ」
グイッと引っ張られ、紫玉の白い胸がはだけそうになるが、もはや抵抗する力も残っていない。
金方「立たねえかい」
紫玉はズルズルと法壇から引き摺り下ろされる。
泣きながら駆け寄る玉野と玉江。
一行はそのまま小舟で万松亭に向かう。
一方、屋形船は、下僕が衣装を抱えて飛び乗ると、島を離れ、桟橋の方に滑っていく。群集は、男爵等も嘲笑の対象にする。
万松亭(夜中)
夜陰の中、すっと障子が開き、廊下、縁側、跣足で庭に下りる紫玉。
万松亭(宵)
座敷の一間で、玉江に酌をさせ、酒を煽っている金方。
玉野が入ってくる。
金方「紫玉はどうした」
玉野「(金方の余りの横暴さに憤慨しているので、少しつっけんどんに)奥の部屋で、お休みになっています」
金方「不貞寝か…ならいいが、お前たち、今夜は紫玉から目を離すなよ。何をするか分かったものじゃない(酒をあおる)」
玉野、悔しさに下唇を噛む。
金方「ふん、面白くも無い。次場所の興行が思いやられるわい」
玉野、居たたまれずに部屋を出る。廊下の途中で涙を拭う。
玉江、玉野と金方に挟まれ、戸惑うが、結局金方に急かされて酌を続ける。
大池(深更)
料亭の通いの小舟が、するすると月夜の下、水面を切って進む。
浴衣に伊達巻。髪は無造作に結い上げた、跣足の紫玉が乗っている。
いかにも床から起きたそのままの形。乱れ髪をさらにむしりつつ、
紫玉「口惜しいねえ…」
櫂もなく行方も知れぬ小舟の舷を悔しさにハタと叩く。
紫玉「ええ、口惜しい」
船はゆらゆらと揺れる。
舷をしきりに叩くうち、やつれて指も痩せたか、右手の指輪がバラバラと抜け落ち、水底に沈んでいく。
やや正気に戻り、水面を見詰めているが、左の手も試しに船端から外に出して振ると、左手の指輪も全て水に落ちてしまう。
かえって清々したという表情なのが、尋常でない紫玉の気持ちを表す。
紫玉はそのまま水底を見詰める。
小舟は竜の口の辺りまで流れ着いている。
月の光が水面と水中を照らし、紫玉の目には、千尋の淵の水底に、翡翠の門に柱、欄干と、櫓、窓、楼が見える。
紫玉「ぬしにも成って、此、此の田舎のものども…」
ゆらりと立ちあがる紫玉の影、遠見にて。
手を合わせると、そのまま、歩を踏み出す。
揺れる小舟。
水音。
万松亭(少し前)
ハッと目を覚ます玉野。
玉野、蚊帳を飛び出す。隣に寝ていた玉江、玉野の様子につられてもぞもぞ起き出す。
玉野「(奥の座敷に向かい)…お嬢さま…お嬢様…」
気配が無いのに気付いて、急ぎ襖を開ける。裳抜けの殻。
嫌な予感の的中に息を飲む。玉江も紫玉が居ないことを知り、玉野と顔を見合わせる。
玉野「玉江さん、あなた、急いで…お店の…人…呼んで…きて…」
言いながら、わなわなと表情が青ざめてくる。
玉江「…は、はいっ!」
玉江、寝っ転がっている金方の横をすり抜け、慌てて廊下を駆けて行く。
玉野は、突っ掛けの下駄を履き、庭に下りると、群萩を掻き分け、池に出る。
玉野「お嬢様っ!お嬢様あ!」
小舟を引き摺った跡。竜の口の辺りに、小舟が、月光に照らされている。
そして遠見の紫玉身投げの姿。
ザブンと響く水音。
驚き、声を失う玉野。
ゆらゆらと大きく揺れる舟の揺れが波を作り、やがて玉野の居る水際まで届く。
玉野「お嬢様…」
玉野、その場にしゃがみこんでしまう。
奥の院
低い地響きのような音と、水の滴る音。
朦朧とする意識のまま、目を開く紫玉。
薄暗い岩窟の中、かろうじて身を起こす。
苔生した井桁の上に、青銅色の竜がとぐろを巻いて蟠っている。
作り物ではない。目を細め、ゆったり心地好さそうに喉を鳴らし、鱗に覆われた体は唸る呼吸に合わせて膨らむ。
その竜の脇、井桁に坊主が腰をおろし、角の枝に腕を乗せた姿で、柔和な表情で紫玉を見下ろしている。
紫玉「御坊様、貴方は?」
坊主「ああ、山国の門附け芸人、誇れば魔法使いと言いたいが、いかな、然までの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品ぢや(にっこりと微笑む)」
紫玉「(目に力入り)私に、何のお恨みで……?」
紫玉、息せきながら問うと、坊主は左手で頬と目を蔽いつつ、
坊主「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆえに、恥じ入るか、もの嫉みをして、前芸を一寸遣った」
坊主、紫玉に向き直り、
坊主「さて時に承るが太夫、貴女は其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞いをせよ、と言わば、すぐに優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな?」
紫玉はきまり悪そうに黙って俯く。
坊主「(続けて、少しきつい言い方になって)其で通るか、(呆れたように)いや、さて、都は気が広い」
紫玉、俯いたまま、恥じ入るばかり。
坊主「(やや身を乗り出して問う)われらの手品は何うじゃろう」
紫玉「(顔を上げ)ええ?」
坊主の顔を見る紫玉。途端に坊主の魂胆を理解し、怒り、恥辱、困惑の感情が一気に胸に迫る。しかし、自分が太刀打ちできるような相手でないことも分かる。
そしてこの乞食坊主に、言いようのない、不思議な恋心すら知り始める。
しかし、紫玉は坊主を屹と見詰める。
紫玉「(挑むように)貴方なら…、貴方なら、何故、さすろうておいで遊ばす」
坊主、痛いところを突かれたように、両手で顔を抑える。
坊主「面目ない、われら、此処に、高い、貴い処に恋人がおわしてな…」
坊主、そっと顔から手を離しつつ、
坊主「(顔を上げ、遠くを見る)雲霧を隔てても、其の御足許は動かれぬ(辛そうに、しかし嬉しそうでもある表情)」
坊主、何かの気配を感じた様子で、
坊主「呀!」
慌しく井桁から降りると、目を見開き、井戸に向かって手を広げて立つ。
井戸の上で口をふさいでいた竜がズルズルと動き、その身を解いていく。
井戸の中より、水煙と、神々しい後光とともに、貴女が現れる。
艶やかな黒髪、白い肌、厳しく正しく、艶に気高い姿。頸に掛けた日傘は前日、紫玉が滝の辺に立て掛け忘れたもの。
紫玉は片膝を立てた姿勢で、呆然と貴女を見上げている。
貴女、ちらりと紫玉に目を遣る。
紫玉、畏まって俯く。
貴女、合図のように左手を軽く上げると、坊主が近寄る。その肩に手を置く。
姫「私を打ったね。…雨と水の世話をしに出ていた時…」
坊主、無言で軽く“御意”の頷きする。
俯いたまま、思い出す紫玉。
回想(神社)
稚児との出会いから、別れたところまでが、フラッシュバックにて現れる。
御手洗の前に取り残された稚児の顔の残像。
岩窟(戻る)
紫玉、顔を上げる。稚児の顔の残像が姫に重なる。
紫玉は恐れ入り、さらにうなだれる。
坊主「姫様、貴女は」
姫「白山に帰る」
坊主「お馬」
姫、坊主の肩に乗せていた手を戻し、日傘を畳む。そして無造作に地面に落とす。
日傘は身震いし、むくと起きる。
坊主が緋色の総を手まさぐると、忽ち紅の手綱となり、立ち上がったその姿は、境内に置かれていた、朱の鞍を置いた白い神馬と変わっている。しかし、本物の馬。
轡頭を曳き、御しながら紫玉のそばに来た時、
坊主「纏頭をするぞ(片手で破れ法衣をかなぐり脱ぎ)。それ、錦を着て行け」
紫玉の肩に投げる。
紫玉、法衣を押さえて顔を上げる。
素裸の坊主はひたと馬に寄り添ったまま、姫の元に行く。
ひらりと馬上に飛ぶ姫。馬は高らかに嘶き、姫を乗せ、曠野の中を掛けていく。
馬の蹄から黒雲が湧き、姫たちの姿を隠す。
紫玉は、再び気を失う。
岩窟(数時間後)
ドウドウと激しい水音が響く。その中に途切れ途切れに聞こえる声。
声「…嬢様…お嬢様…」
ゆっくり目を開く紫玉。
声「…お嬢様っ!」
声の主、玉野がびしょ濡れで、紫玉に抱きつく。
玉野「お嬢様、ああ、よかった…よかった…」
紫玉「(夢から覚めたばかりのような様子で)玉野さん…いやだ、お前、びしょ濡れじゃないか」
玉野黙ってかぶりを振りながら、泣いている。
紫玉、辺りを見まわし、肩に掛けられた法衣に手をやる。急に記憶が鮮明に戻る。立ちあがろうとしてよろけるのを、玉野が慌てて介添えに肩を貸す。
岩窟(入り口)
外は車軸を流す豪雨に煙る。
玉野に連れられて出てくる紫玉。
紫玉は無言で空を見上げる。
空には雷鳴が轟き、雨は一層激しく降り続けるままに溶暗。
舞台(後日)
雨の音がそのまま観客の喝采に重なる。
舞台の上には光り輝くばかりの紫玉の姿。
カーテンコールの拍手、鳴り止まぬままにフェードアウト。
END