〇お孝(『日本橋』)

 幼い頃に両親を亡くし、苦学して医学博士となった葛木晋三は、自分を育てるために人の妾となった姉に面影の似た芸者、滝の家の清葉を思慕していました。
 雛祭りの晩、葛木は清葉を座敷に呼び、それまで一言も話さなかった身の上を語り、想いを告げるのですが、清葉は旦那のある身、葛木の気持ちには応えてくれませんでした。
 振られた葛木が一人、一石橋の上から、雛壇に供えてあった栄螺と蛤を放生会のために川に流していると、その様子を怪しんだ巡査に尋問されてしまいます。窮している葛木を助けたのが、同じく蛤を放生会に来た、稲葉家の
お孝でした。
 以前から清葉に、異様な程の対抗意識を持っている
お孝は、身持ちの固い清葉に言い寄っては振られる男たちを、一夜限りとの約束で、悉く自分のものにしてきました。
 その晩も、葛木が清葉に振られたことを知り、
お孝は葛木を慰め、そして我がものとしたのです。
 これまで
お孝は本当に男たちを愛することはありませんでした。しかし今回、お孝は本気で葛木に惚れてしまいました。
 馴染みで入り浸っていた赤熊こと五十嵐伝吾を、すげなく部屋から追い出して、
お孝は葛木に一途に尽くすようになります。
 葛木は清葉のことが、そして姉のことが忘れられずにいました。
お孝の方もそんな葛木の気持ちを知りながら、諦めることが出来ず、また自分が清葉への意地から葛木を篭絡したということに対して、後ろめたさも感じていました。
 葛木はある晩、赤熊に
お孝と別れて欲しい、お孝の目の前から消えて欲しいと懇願されました。お孝に入れ揚げた挙句、落ちぶれて、家庭も捨て、纏った熊の毛皮に涌いた蛆虫を食べながら命を繋いででも、惚れた女の傍から離れたくないと言って憚らない赤熊の様子に感じ入った葛木は、お孝の家に取って返します。お孝に預けてあった姉の、そして清葉の面影に似た京人形を持って、葛木は姉を探す旅に出ます。
 葛木を失い、その悲しみから、
お孝は気が狂ってしまいます。
 月日は過ぎ、葛木は東京にふらりと戻ってきます。懐かしさに日本橋を訪れた僧形の葛木は、近所の子供たちにからかわれている
お孝の妹分お千世を助け、また旅を続けようとしていると、清葉の置屋、滝の家から火が出たという知らせを聞きつけます。
 騒動の中、赤熊は
お孝と無理心中を図ろうと、稲葉家に刀を持って乗り込み、お孝の叔母を殺し、お千世を斬りつけます。お孝は赤熊から刀を受け取ると、赤熊の口から咽喉を刺して抉り殺し、駆けつけた葛木と再会します。清葉に後のことを託すと、お孝は黒子消しの硝酸を飲んで自殺します。
 清葉はお千世を引取り、滝の家を稲葉屋に移し再興させます。葛木は復学し、独逸に留学します。

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