〇貴船伯爵夫人(『外科室』)

 画師の予は、兄弟以上に親しい医学士高峰に頼んで、彼が執刀することになった貴船伯爵夫人の手術に立ち合わせてもらいます。
 外科室の手術台に白衣を着て横たわっている夫人は、痲酔剤を服用することを拒みつづけていました。夫人は心に一つ秘密があり、痲酔剤は譫言(うわごと)を言うそうだから、それが恐いと言います。眠らずに治療が出来なければ、もう治らなくても構わないと思うほどに守らなければならない秘密だというのです。
 高峰は夫人の望みを聞き、痲酔なしで手術を始めます。
 メスが骨に達した時、夫人は半身を跳ね起こし、メスを持つ高峰の右手の腕に両手をしかと取り縋ります。
 「でも、あなたは、あなたは、私(わたくし)を知りますまい!」夫人はそう言うと、高峰が手のメスに片手を添えて、乳の下深くを掻き切ります。高峰は真蒼になっておののきながらも、「忘れません」と返答します。夫人はその答えに微笑むと、そのまま息絶えてしまいます。

 九年前、高峰が医学生であった頃、予とともに小石川植物園を散策していた際、躑躅の丘に向かって、池の周りを歩いていると、一群れの観客と擦れ違いました。その中に、結婚する前の彼女がいたのです。高峰は、予にもそのことを一言も語らず、医学士となって、現在の地位に就いても、謹厳に独身を通していたのです。

 その夜、高峰は自ら命を絶ち、夫人の後を追いました。

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