先々月より逗子の停車場の近くに一室を借りて自炊生活をしているその散策子は、停車場建て直しの落成式で騒がしい街中を避けて、人通りの少ない久野谷の鄙びた道を散策していました。若い婦人の声がした二階家に蛇が入っていくのを見つけ、ちょうど近くで畑を耕していた親仁に声を掛け、そのことを家の者に告げるよう言って、また道を進んで行きます。
立ち寄った霊場、岩殿寺の丸柱に“うたゝ寐に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき−玉脇みを−”と女文字で書かれた懐紙を見つけます。寺の住職は散策子に声を掛けます。昨年、この寺に散策士に似た男を逗留させたことがあり、男はその玉脇みをという地元の財産家玉脇斉之助に嫁いだ美しい後妻みをに恋煩いし、こがれ死にをしたという事を聞かされます。自分に似た男が憧れ死にしたと聞かされ、散策子は興味を持ちます。しかも歌の書き手の現在の住居が、先刻蛇の注意をした二階家であることを知り慄然とします。
昨年の夏、小松橋の先にある玉脇の別宅に暮らしていたみをを見掛けた男は何度も目を交わすうちに、恋い慕うようになります。
ある日、男は停車場近くの電話で、みをが実家の者と話しているのを聞きます。初めて声を聞いた嬉しさに、男はその晩ふらりと外出します。男は聞こえるはずのない囃の音に惹かれて、険しい山路に入り込みます。靄に包まれた先に祭礼があるかのようで、男が歩いていくと、幾つにも仕切られた舞台の上に何人もの女たちが居るのを目にします。そしてみをが舞台に上がったのを見て、その場から動けなくなります。すると男の背後から背中を擦るように出た黒い影があり、舞台に出てみをと背中合わせに坐り、こちらを向いた顔は、まさしく男自身なのでした。男の影はみをの背中に指先で△、□、○を書いていきます。気が付くと辺りには何も無く、男は慌てて寺に戻り、住職に全てを語るとそのまま寝込んでしまいます。
翌日、偶然にも女中を連れてみをが寺に参詣に来たので、住職は心配し、寝込んでいる男には知らさぬようにしました。その日、柱にうたゝ寐の歌が貼られたのでした。
数日間男は部屋にこもっていましたが、住職が目を離した隙に、再びその晩のような芝居が見たくなったのか、“蛇の矢倉”と呼ばれる、寺の裏山の、海に続いていると言われる横穴で見掛けたという木樵の話を最期に消息を絶ち、間も無く海に亡骸が打ち上げられたのが見つかります。『春昼』
散策子は寺から帰る途中、住職の話を考えながら、路を引き返し歩いていると、畑仕事をしていた親仁と再会します。家の者に蛇を追い払ったことを感謝され、教えてくれた散策子に礼を申すよう言付かっていたのです。二階家の女主人、玉脇みをは、散策子の帰り道の前途である土手の上で、紫色の傘を横に佇んでいました。みをは散策子を呼びとめて礼を言います。
みをは散策子が通った時は起きていたのですが、家の二階から散策子の姿を見て心持が悪くなり、横になっていたと話します。しかし実はそれは真実でなく、姿を見て心持が善くなったのだと言い訳され、散策子はみをにからかわれている気分になります。みをは恋しい、懐かしい人がいて、そしてどうしても逢えないで、夜も寐られないほどに思い詰めているところに、肖た姿を見受けたので、そのために厭な心持になったのだと告白します。春の日中の長閑で麗かな日は、秋の暮の寂しさよりも心細く感じるとみをは言います。
散策子が寺に居た時分、みをが二階の床に伏せっていると、門附け芸人が二階家に来て追い返そうとした際、厭な思いをしたことを聞かされます。雨がやんで明るくなったため、みをは気晴らしのため外に出てきたのでした。
みをは手帳に絵を書いていると話します。大小濃薄乱雑に、鉛筆で△、□、○が描かれているのを見て、散策子はゾッと蒼ざめます。
二人の前に幼い角兵衛獅子がやってきます。芸を披露する姿に心打たれたみをは年上の子に手帳の紙に走り書きした書き付けを渡し、二階家にお銭を取りに遣らせます。そしてさらに手帳の余白に、“君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかきつ見てまし”と鉛筆を走らせます。小さく畳み、年上の獅子に落としたりなくしたりしたら其処で良い、唯持って行けばいいからと託します。年上の獅子が、年下の獅子の頭の中にしまい、獅子の二人は去っていきます。
散策子はことづけの行方を見届けに行くという断りを入れてみをと別れます。しかし、連獅子の足は速く見失い、また街道に出ると、停車場に向かう人々の喧騒に巻き込まれるのも嫌で、田んぼを抜けて海岸に出ます。砂浜でみをのことを考えていると、連獅子の二人を波打ち際に見つけます。
年上の獅子は浜に打ち上げられたアラメの上で横になり、子獅子は海が珍しいのか、波打ち際で遊び始め、次第に身につけているものを取って、最後には裸になって波と戯れます。散策子はその姿を遠目に眺めています。
しばらくすると、年上の獅子が太鼓を叩き、子獅子はそれに合わせ、獅子頭だけをつけて水の中で頭を倒にしますが、波にさらわれてしまいます。年上の獅子は子獅子の衣服を抱え、街に走っていき、間も無くして大人や巡査がやってきます。
死骸は翌日、去年の夏に寺の庵室の客人が上がったのと同じ、鳴鶴ヶ岬の岩で見つかり、上がった時は二人でした。玉脇の妻、みをは霊魂の行方が分かったのであろう、ことづけを頼んだ子獅子を胸に抱いていたのです。『春昼後刻』
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