The April fools 第一話

作:蒼馬要


 昭和天皇の容態が心配される一九八八年の暮、世間は自粛ムードながらも十二月に入るとクリスマスを控えて、繁華街などは色とりどりのイルミネーションに彩られていた。
 山下達郎の『クリスマスイブ』がJR東海のクリスマスエキスプレスCMのBGMに使われたことから人気が再燃し、街の至る所から流れてくる現象においては、思い入れのある曲なだけにやや食傷気味でもあり、残念でもあった。

 銀座や渋谷、六本木といった繁華街の様子を撮って治樹が編集部に戻ると、デスクの野間が一人であちこちに電話を掛けている。
「お疲れさまでーす」
 気付かれないのは毎度のことなので、自分の机の上にカメラと鞄を置き、煮詰まったコーヒーを飲みながら冷えた身体を温めていると、慌しく瀬田編集長が入ってきた。
「編集長、先生の具合は?」
「病院で点滴を打っている。二三日は絶対安静だ。このまま入院させるんで奥さんに来てもらった。橘遼子の事務所には連絡ついてるのか?」
 一度は椅子にどかっと座ったが、すぐに立ち上がり落ち着かない様子で歩き回っている。
「はい、橘さんは午後までのドラマ収録が夕方まで押してしまったそうなんで、湯島でのロケスケジュールはとりあえず明朝に変更になりました。なのでこれから代官山の現場に入るそうなんですけど、先生がその様子だと…いけませんね…」
 腕時計を見ると、間もなく八時だ。
「撮影日の変更は出来ないのか?」
「それがですねえ…」
 野間は苦い顔でメモを見ている。
「橘さん、明日から海外ロケのスケジュールが入っているそうなんです。今日を逃してしまうと、あと十日先まで撮影は無理だというんです」
 十日先というと、次回年末年始号の締め切りはとうに過ぎている。
「参ったな…」
 編集長は胸ポケットから煙草を出して火をつけると、ソファーに座った。
「代役を立てるといっても、さっきから各方面に当たるだけ当たってはみているんですが、時期が時期ですから、どの事務所もすぐに橘クラスの女優やタレントを用意するというわけにはいかないようで…」
「そりゃそうだな…だが、金剛地先生は今日の撮影は絶対無理だ。締め切りぎりぎりでいい…四五日先でいいからあたってみてくれ」
「はい」
 野間は再び受話器を握って電話をかけ始める。
「あのう、どうしたんですか?」
 非常に切迫している様子が気になって、治樹は恐る恐る電話の切れ間を待って、野間に声を掛けてみた。
「ああ、萱嶋君、今日宿直だったっけ」
 やっと存在に気付いてもらえた。
「ええ、御厨さんの代わりです」
 宿直は持ち回りの当番制だが、夜食と残業手当が付くのでそれを期待して治樹は特に予定の無い日に誰かから頼まれると、交換条件無しに宿直を引き受けていた。カメラマンといっても電話番が主な仕事で、本当に深夜になれば滅多に電話も掛かってこないから記者と交替で仮眠も取れる。うまくいけばスクープの現場に一番乗りで直行することも出来るのだ。
「御厨さんはまた外回りですか」
 野間はスケジュール表を見ている。
「担当してるヤマが今夜辺り動きがありそうだからって頼まれたんです」
 本当は私的な用事なのかも知れないけど、先輩のプライベートを深追いしてはいけない。
「萱嶋か…萱嶋…、なあ、野間、萱嶋はどうだ?」
 編集長は受話器を持って電話をかけ始めている野間に声を掛ける。
「え、萱嶋君ですか…」
 野間は電話を切って萱嶋を見る。
「な、何ですか…」
 二人にじっと顔を見られて治樹は焦った。
「そうですねぇ…金剛地先生の方の代わりですか…それは今夜撮るとしたら、萱嶋君しか居ませんよね…」
 編集長はポンと膝を叩いて立ち上がった。
「よし、萱嶋、宿直はいいから、これから俺と一緒に来い。ロッカーにスーツがあっただろ、あれに着替えるんだ」
「…はあ…」
 訳が分からずぼんやりしていると、
「早く支度しろっ!五分後に出るぞ」
「は、はいっ!」

 代官山に向うタクシーの中で、編集長から大体の状況を聞かされた。
 治樹の勤めている写真週刊誌『ショット』には、創刊当時から『美女百景』というグラビアコーナーがある。著名な写真家金剛地賢太郎が女優やタレント、アイドル、文化人、美人スポーツ選手などを撮っている人気連載だ。
 しかし今朝、その金剛地がインフルエンザに罹り、高熱を出して倒れてしまったというのだ。
「橘遼子って言ってましたけど」
 トレンディドラマで主役を演じたり、女性誌などでも頻繁に表紙を飾っている若手の中でも実力派の女優だ。
 大河ドラマや朝の連続ドラマへの出演が続き、NHKの好感度調査でもここ何年か上位にランクインしている。そう言えば編集部の正面に据えられているスケジュール表にも橘の名前が書いてあった。自分の担当ではないから、大して注意は払っていなかったのだが。
「ああ、年末年始の合併特大号だから、大物をってブッキングしたんだが、よりによってこんなことになるとは思っていなかったよ…」
 治樹はそれまで他人事のように聞いていたが、
「あの、それで、何で…え、まさか…」
「カメラマンは皆出払っちまってるんだ。お前が撮るんだよ」
「えええっ!」
 ポートレイト写真なんて、大学の実習以来全くご無沙汰だ。当時の提出課題だって何度も撮り直して締め切り直前にやっと通った位で、あまり得意なジャンルではないというのが正直なところだ。
「橘遼子や事務所からもし何か言われたら、俺が詫びを入れる。だからお前が撮れ」
「…でも、金剛地先生の事務所にもカメラマンがいるんですよね?アシスタントもいるんでしょ?そういう人に任せた方がいいと思いますよ…」
 編集長は首を横に振る。
「金剛地先生が美女百景の撮影をする時は、機材スタッフも最低限しか用意しないんだ。撮影が始まると被写体のモデルと一対一になる。だからアシスタントカメラマンも現場には連れてこないんだ」
「…そうなんですか…」
 金剛地は大学の同学科の大先輩に当たる。しかし治樹もまだ本人と直接会ったことはない。噂では相当気難しい人物だと聞いている。
「…それでも、代わりの人いなかったんですか?」
 編集長は渋い顔をする。
「先生もギリギリまで自分が撮ると言い張っていてな…病院に連れて行くのも一苦労だったんだ」
 しかしインフルエンザと分かれば無茶は出来ない。現場で倒れられても困るだろうし、実際伝染されでもしたら周囲はもっと困る。
「先生にとっても連載を落とすことは一大事だろうが、それは意地やプライドみたいなもんだ。だが俺たちにとっては死活問題だからな」
 美女百景が『ショット』の発行部数の伸びを握っている一番人気の連載であることは厳然たる事実である。金剛地に撮られることで多方面から注目されて芸能界で成功するタレントや女優の卵は多い。橘遼子も実はそのうちの一人なのだという。そのような連載を一回でも落とすことは出来ない。
「そうですか、分かりました」
 こんな機会は滅多に無いだろう。撮らせて貰えるだけでも有難いことだ。治樹は気軽に引き受けてしまった。
「…ただ、この連載はあくまで金剛地先生のものだ。今回はお前が撮ったものを先生が監修するという形になるんだが、お前の名前は出すことが出来ない…了解してくれるか?」
「はい…それは…」
 緊急措置ということか…まあ、カメラもその他の機材も全部金剛地のものなのだから、結局はそうなってしまうということはある程度覚悟していた。
 美女百景の連載にも毎週目を通しているし、学生時代には金剛地の作品を参考にして撮影をしたこともある。そっくり真似して撮るとまではいかないだろうが、何とかなりそうだ。
「ピンチヒッターになれる自信は毛頭ありませんけど、ベストを尽くします」
 そう答えたものの、まだ実感はちっとも湧いてこなかった。


第二話