The April fools 第七話
作:蒼馬要
ハードスケジュールが続いた八月のある日、治樹は稽古場で立ちくらみを感じた。連日の徹夜の張り込み、少ない休みの日にも熱帯夜で寝不足で、昼間は生欠伸がプカプカと出て止まらない。
来月初めの初日を控え、稽古場での練習は今週末まで。主要な役者の芝居にも熱が入っていた。
あまり食欲が無く、昼は蕎麦屋でざる蕎麦を頼んだが半分位しか食べられなかった。
集中力が落ち、シャッターを押す指もタイミングを外してしまう。少し仮眠を取ろうと思い、稽古の邪魔にならないよう廊下に出て、ベンチに横になっていたが、動悸が激しく眠れなかった。薄目を開けてぼんやりしていると天井がぐるぐると回って気分が悪くなってきた。トイレに行こうと起き上がろうとしたが手足に力が入らない。どうしたのだろうと思いながら気が遠くなっていった。
「遼子ちゃん、廊下に萱嶋君が倒れてるんだけど…」
第一発見者は別の仕事で遅れて稽古場入りしてきた望月だった。
「どうしたの、萱嶋君!」
橘は廊下に飛び出てくると、治樹を抱き起こした。
「遼子ちゃん、あまり揺り動かしちゃまずいと思うよ」
「そ、そうね…」
役者やスタッフ数人がかりで近くの病院に連れて行くと、寝不足と過労による脳貧血と脱水症状という診断だった。
治樹が目を覚ますと、橘が顔を覗き込んでいた。
「…あ、橘さん…」
起き上がろうとすると、肩を押さえられた。
「編集部には連絡したから、ゆっくりしていいのよ」
「…でも、ここは…」
横になったまま辺りを見回したが、病院ではない、見たことの無い部屋の中だった。
「わたしの家」
「え…」
身体を起こそうとして腰に力を入れると、尻が猛烈に痛む。
「い、痛い…何これ…」
仰向けになると圧迫されて痛みが増すので、身体を横向きにして片方の尻を手で触ると硬く腫れあがっている。
「先生がお尻にブドウ糖の注射をしたのよ」
「何で?」
「点滴しようとしたら、暴れて何度もチューブを外しちゃうんだもの。危ないからお尻に打ったの。萱嶋くん覚えてないの?」
「はあ…」
覚えているような、夢だったような、しかしこの痛みは確実に現実のものだ。
「萱嶋君の家って吉祥寺よね。遠いし一人暮らししてるって言ってたでしょ?病院ではもう帰っても大丈夫って言われたんだけど、まだ意識も朦朧としてるし、心配だったからスタッフの人に手伝ってもらって、家に運んでもらったの。今夜は泊まっていって」
腕時計を見ると、もうすぐ六時。稽古の後には、テレビドラマの仕事が入っている筈なのに。
「でも…橘さん、後の仕事は…」
「衣装合わせだけだから、蓮見さんに行ってもらったの。後の仕事はキャンセルしたわ」
「そんな…」
「だって、萱嶋君を放っておけないわ」
申し訳無さに力が抜けた。橘の部屋は温度も湿度も最適で、深呼吸をすると花か何かの優しい匂いがする。
「でもやっぱり悪いですよ…」
橘と二人きりなんて。
「蓮見さんももうすぐ帰ってくるから、気にしないで」
「え?」
「言ってなかったっけ、このマンション、わたしと蓮見さんで半分ずつ使ってるのよ」
「シェアリングですか…」
「そう、広いから一人で使うのには持て余してたの」
少し安心した。
「おなかが空いたら言ってね。お粥くらいだったら作れるから。それともお水飲む?冷たいのより、白湯のほうがいいわね、待ってて」
具合が悪い時に親切にされるというのは、この上なく有難かった。
「橘さん…すみません…」
橘はクスッと笑った。
「本当はね、わたしも少しサボりたかったの。萱嶋君を口実に今夜はゆっくりしちゃおうと思って」
「河本社長には…」
「勿論言ってないわよ。連れてきてくれた人たちにも口止めしときました」
いつの間にか寝入ってしまい、再び目が覚めると朝になっていた。
治樹が寝ていたのは、リビングにある来客用のソファーベッドで、向かいに置かれた二人掛けのソファーでは橘がすやすやと寝息を立てていた。起き上がると身体の節々が少し痛むが倦怠感は無かった。着ているTシャツとスウェットは自分のものではない。
足元に落ちていた膝掛けを橘に掛けようとすると、パッと目を開いて治樹を見上げた。外にいる時は必ず化粧をしている橘が、今はすっぴんである。千春が言うような、厚化粧に隠す肌荒れなど無く、すべすべした頬に浮いた薄いそばかすが魅力的だった。カメラ…咄嗟にそう思って自分の荷物がどこにあるのか部屋の中を見回した。
「いやだ、今は撮らないでよ」
治樹の心中を察して、橘はクスクスと笑い出した。
「あ、その…」
照れ隠しに頭を掻いていると、奥の部屋から蓮見が出てきた。
「あら、遼子ちゃんずっとここに居たの?」
「うん、すぐ寝ちゃったみたいだけど…萱嶋君、お腹すいたでしょう。お粥、温め直すわね。昨日作っておいたの」
橘はキッチンの方に行ってしまった。
「すいません、お邪魔してます…」
蓮見に謝った。
「遼子ちゃんね、萱嶋さんが倒れたのは自分のせいだって、気にしてるのよ」
「そんなこと…」
「仕事掛け持ちして、オーバーワークなんでしょ。社長も無理言う人なんだから。あなた、適当に息抜きしないとまた倒れちゃうわよ」
「…はあ…」
三人でそぼろ卵と梅干とおかか醤油でお粥を食べ、治樹は社に戻った。
「何やってんだ、お前は」
瀬田編集長はむっつりとした表情で治樹を睨んだ。
「橘遼子から電話を貰った時は何事かと思った」
「不可抗力だったんですよ」
「…手を付けたのか?」
「いえっ!それは絶対に無いっすっ!」
「本当か?」
「橘さん、マネージャーと一緒に暮らしてるんですから、そんなこと…それに昨日はそれどころじゃなかったんですから…」
必死の言い訳でどうにか信じてもらえた。
「まさかとは思うが、撮られてないだろうな?」
「え…」
「稽古場には何社も取材に来ているんだろ?他社にスクープされたら、それこそミイラ取りが何とやらだからな」