The April fools 第十一話
作:蒼馬要
三十分くらい経って、楽屋に河本が入ってきた。橘は奥で衣装に着替えていた。
「どうですか?」
治樹が聞くと河本は首を横に振る。
「ずっと黙ったままだ」
「名前も、手紙のことも言わないの?」
橘がカーテンから顔を出して聞くと、社長は頷いた。
「開場時間だな、わたしはロビーの方で挨拶をしてきます。萱嶋君は、遼子のことを守ってください」
「そんな守るなんて…」
「あの真吾という男は、ゲネが終わるまで事務室の中に閉じ込めておきます。だから危ないことは無いと思うけれど、遼子のそばに付いていてください」
事務室には窓が無く、部屋の中とドアの前に一人ずつ警備員を置いてあるという。
公演通り休憩を挟んで三時間、『クレオパトラ』のゲネプロは無事終了した。
治樹が撮り終えたフィルムを確認しながら楽屋に戻ってくると、支配人が事務室の外に立っていた警備員と話をしていた。
「一言も口をきかなかったそうです」
「そうか…」
ドアが開いた時、ちらりと青年の横顔が見えた。俯き加減で緊張した面持ちで座っている様子が生々しかった。本当にあの脅迫状は彼が書いたものなのだろうか。
一時間ほどして、新聞や雑誌のインタビューを切り上げ、スウェットに着替えた橘が事務室の前にやってきた。
「わたしが話してみます」
「君が?」
「いいでしょ?ボス」
河本は意外そうな顔をしたが、分かったと頷いた。
橘は真吾と机を挟んだ向かいの椅子に座ると、まず頭を下げた。
「真吾君…ごめんなさい、わたしあなたから以前にいただいた手紙を処分してしまったから、それが本当の名前か分からないの」
「…真吾というのは…本名です…」
青年は俯いてテーブルを見詰めながら呟いた。
「そう、真吾君…昨日劇場にね、上演を中止しろという手紙が送られてきたの」
橘は言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「あなたの履歴書の字と、その手紙の字が似ているという人がいて、それでね、もしかしたら…」
「…僕が…書きました…」
橘は息を呑んで、社長と支配人の顔を見た。
「真吾君、本当なの?」
「はい…」
席を立ち上がった橘は、頬を上気させて真吾を見下ろし語気を強めた。
「どういうつもりなの?ちょっとしたいたずらの気持ちで書いたとしても、沢山の人に迷惑が掛かることなのよ」
橘の叱責する言葉に真吾は首をうなだれた。
「あなたも一緒に舞台を作り上げてきたスタッフなのに…」
「そうだぞ君、我々が未然に君を見つけたからよかったものの、このことがもし外に漏れて騒ぎが大きくなったとしたら、君だって警察に行って取調べを受けることになるんだぞ」
支配人がそう脅すと、真吾は俯いたまま首を振った。
「…でも…」
「でも何だね?!」
興奮した支配人がテーブルを叩いたので、真吾はビクリと震えて身をすくめたまま、再び口をつぐんでしまった。
「支配人…」
河本に注意されて支配人は鼻息をフンフン言わせながら後ろに下がった。
時間は刻々と過ぎていった。何も無ければ皆帰宅する時刻であり、皆それぞれに今夜の予定が詰まっている。早くこの状況が解決することを期待していたが、真吾が黙り込んでしまったままだったので、皆がイライラしていた。
「八時か…」
支配人は腕時計を見ながら周りに聞こえるように呟いた。
真吾はずっと黙っていたが、一言ぽつんと呟いた。
「あの…トイレに行かせてください…」
身柄を確保してから随分時間が経っていた。
「行かせてやりましょう」
「支配人!」
十分ほど前に真吾をトイレに連れて行った警備員が慌てて戻ってきた。
「何だね」
「外で待っていたんですが、小便にしてはなかなか出てこなくて、それで中に様子を見に行ったら…窓が開いていまして…」
「窓?ここは六階じゃないか」
「はい…でも居ないんです…」
警備員もまさか窓から逃げるとは思っていなかったようで顔が青ざめている。
支配人と河本は反射的にトイレの方に駆けて行ったが、廊下にいた治樹は真吾が居ないと聞いた直後、階段を駆け下りていた。
トイレの窓は隣りのビルに向き合っている。
治樹もここのトイレを利用した際、窓から外を眺めたことがある。
隣りのオフィスビルまでの距離は2メートルも無く、各階に避難用の外階段に通じるベランダがあり、飛び移ることが出来れば逃げることも可能だった。
楽屋口のドアを開けると、目の前を走っていく真吾の背中が見えた。
「真吾君!」
声を掛けられると、一瞬真吾は立ち止まって振り返った。治樹を見てやや顔を歪ませ、何とも言いようのない笑顔を浮かべたが、くるりと背を向けて走り出した。
数歩走りかけた直後だった。ドンという鈍い音がして、治樹はハッとした。ビルの地下駐車場に進入しようとしてきた車が急ブレーキをかけて目の前で止まった。河本社長の車で、中から運転手の熊谷が慌てて出てきた。
「君…大丈夫…君…」
「熊谷さん」
「あ…あ…萱嶋さん…」
熊谷の前に真吾が不自然な体勢で倒れている。
「…きゅ、急に飛び出して来たんです…」
熊谷はパニクッてどうすることも出来ずにただおろおろとしている。治樹は迷うこと無く真吾に向けてシャッターを切った。
「ど、ど、どうしよう…どうしよう…」
「この車、電話付いてましたよね、救急車を呼んでください」
治樹はシャッターを切りながらそう言った。
「ああ、そうですね…」
熊谷は車の中に飛び込んで電話を掛けている。真吾は倒れたままピクリとも動かない。
「萱嶋君!?」
エレベーターから支配人と河本が出てきた。倒れている真吾の様子を見て、一瞬たじろいだが、河本が真吾に近寄って覗き込んでいる。
「生きているのかね?」
「多分、でも動かさない方がいいと思って、今熊谷さんが救急車を呼んでいます」
「そう」
「橘さんは?」
「楽屋にいる。来ないように言ってきた」
河本は真吾に触れるのをやめ、後ろに立っている支配人に、
「支配人、警察にも連絡してください」
そう言って電話を掛けている熊谷のところに行った。
「分かった」
支配人はエレベーターに戻った。
河本は熊谷から受話器を受け取り、電話を掛けている。
治樹はさらに真吾に近寄ってシャッターを押していた。
数分後、真吾は救急車に乗せられて病院に運ばれていった。入れ違いに数台のパトカーが楽屋口前に横付けされた。