The April fools 第十二話
作:蒼馬要
鑑識の調べによると、真吾はトイレの窓から外に出て、向かい側のビルに飛び移り、非常階段を降りて逃げていた。手摺りや床には真吾の付けた手や靴の跡が残っていた。一階の出口にはプラスティック製の板がはめ込まれていたので、真吾は二階に戻り、手摺りを乗り越えて下に飛び降ると狭い通路を走って公道に飛び出そうとした。そしてちょうど楽屋口脇の駐車場に進入してきた車に接触して転び、その際に頭を地面に強く打って昏倒したものと考えられた。
慎吾は腹部を車のバンパーにぶつけた際に脾臓が破裂したため緊急手術を要した。
支配人は劇場に残り、舞台監督の秋月と中川が病院に行った。
熊谷は警察に出頭した。前方不注意による業務上過失致傷である。
楽屋と事務室に残っていた全員がその場で事情聴取を受けた。
「では、被害者は身分を偽って仕事をしていたんですか?」
「はい、私共も昨日まで全く気づきませんでして…」
支配人は捜査官にそう返答した。
真吾の持っていた鞄の中にも身元が分かりそうな物は何も入っていなかった。
「何故、彼は窓の外に出たんでしょうね?」
「あの、逃げるつもりだったのではないでしょうか。それまで私達が事務室で彼に何故嘘をついていたのかと聞いていましたから…」
「身分詐称を詰問されたくらいで、暗くて足場もよく見えないビルの六階の窓から隣のビルに飛び移って逃げようなんてことを考えますかねえ?」
「…そういうことに、なりますね…ですが、それ以外には考えられなくて…」
支配人はしきりに汗を拭った。支配人は脅迫文のことを警察に話すべきかどうかまだ悩んでいた。初日を控えてこれ以上余計な騒動に発展させたくなかったのだ。
「詳しい調査結果が出るまで、まだ何とも言えませんが、あの青年は自分の意思で逃走し、その途中で車に撥ねられたと見て間違いないでしょう」
刑事の言葉に支配人はホッとする。
「あとは身元の確認です。こちらでも思い当たることがあったら連絡をお願いします」
「はい」
「支配人…」
病院に行っていた秋月から電話が掛かってきた。
「真吾が、亡くなりました」
脳内出血と脳浮腫で脳が圧迫され、真吾は病院での処置が間に合わずに息を引き取った。
熊谷は過失致傷から過失致死に罪状が変わって、そのまま書類送検されたが数日後、河本社長が保釈金を支払い、身柄を引き取った。
真吾の遺体は身元不明のまま警察の解剖に回されることになり、大学病院の法医学部に移されることになった。
面倒な手続きを済ませて秋月が劇場に戻ったのは、既に十二時を過ぎた頃だった。一日の間に目まぐるしく色んなことがあった。ゲネプロ直前に信頼していたスタッフの真吾が身分を偽り、劇場に脅迫状を書いていたこと。そして急遽フォーメーションを組み直して臨んだゲネプロ。何とか無事に終えた後、今度は真吾が逃げ出し、そのまま事故死してしまった。何故こんなことになったのか。明日からの本番にどう影響するのか。
冷蔵庫にあった缶ビールを飲みながら、混乱した頭のままぼんやりとしていると、ドアをノックして中川が入ってきた。
「秋月さん」
「何だ、まだ帰ってなかったのか?」
「帰っても、眠れそうになくて…」
「そうだな…」
「俺も一本貰っていいですか?」
「ああ、飲んだら帰るぞ。明日があるからな」
「もう今日ですけどね…」
中川はビールを開けると、秋月の飲んでいた缶に軽く当てた。
「献杯…」
仕事終わりのビールは美味しいと決まっているのに、こんなに苦く感じたのは初めてだった。
「中ちゃんはいつも真吾の面倒を見ていたんだよな…」
「ええ、新人やバイトの指導は俺の担当ですから…」
口数は少なかったが、素直で仕事もてきぱきとこなしていた。公演期間も続けて働いてみないかと誘い、秋月に推薦したのは中川だった。
「俺、一度シンのことを家に泊めてやったことがあるんです」
「いつ?」
「稽古場に仮セットを設置するの、急に決まったでしょ?本舞台の製作もあって、俺が忙しくしてたのをシンも見ていて、ずっと仕事終わりに手伝ってくれてたんですよ。搬入日の前日には、仕上がらないとまずいからって、シンのやつ、終電が無くなった後まで残って手伝ってくれたんですよ」
「ああ、あの頃か」
「残業してもバイト代多く払うわけでもないのに…」
「真吾らしいな」
「で、何とか完成して、その晩、俺の家に泊めたんです」
「そうか」
「家に帰る前に一緒にラーメン屋で飯食ってビール飲んで…」
「真吾は未成年だろ、飲ませたのか?」
「あ、一杯だけですよ、それもグラス半分くらいでベロベロになっちまったんで後は飲ませてませんよ」
「ホントか?」
秋月は中川を軽く殴る真似をする。
「酒が入ったせいか、いつもよりあいつと色々喋れたんです」
「何か、身元が分かりそうなことでも話したのか?」
「あの晩は…」
明日、完成した仮セットを稽古場に持っていくという話になると、真吾は橘にも会えるだろうかと真剣に中川に訊ねてきた。稽古が始まる前に組み立ては終わってしまうから、橘に会える確率は低いだろうと言うと、真吾はとても残念そうな顔をしていた。
「シン、お前橘遼子が好きなのか?」
中川がからかうと、真吾は酔った顔をさらに真っ赤にしていた。
「まあ、いいってことよ。俺だって明日…もう今日か、橘遼子に会えるかもって、かなり期待してるんだ」
「え、中さんもですか?」
「そりゃそうだよ。橘遼子、きれいだもんな…それに俺たちの作ったセットの上で芝居してくれるんだぜ。張り切らずにいられるかよ」
「…そうですよね…僕たちが作ったセットなんですよね…」
「その時、初めてシンが橘さんのファンなんだって知ったんですよ、俺」
「真吾の身元に関しては分からなかったのか…」
秋月はため息をついて残りのビールを飲み干す。
「あ、でも、これ…」
中川は財布の中から紙切れを出した。
「会計の時に、俺が金払ってるのに、あいつ自分で払うってきかないんですよ。足元なんかもフラフラしてるのに。それで少し揉み合いになって、結局俺が払ったんですけどね。その時にあいつの財布からこれが落ちたんですよ」
「定期券じゃないか」
四月から三ヶ月間の既に期限切れの定期券だった。真吾が落としたことに気付いていなかったので、中川は後で渡せばいいだろうと思い、そのまま自分の財布にしまいこんであったのだ。
「これ通学用の定期券ですよね…あいつ、学生なんですよ」
履歴書には今年の春に高校を卒業したと書かれていたことを秋月は思い出した。
「学生ってことは、大学生か?」
「俺、前からちょっと気になってたんですけど、あいつ背は高いけど大学生にしちゃ随分ガキっぽいと思いませんか?」
中川の話に思い当たる節があり、秋月も呟いた。
「…高校生か…?」
名前の後ろの年齢が少しかすれていて1×と見辛いので確信が持てない。
「…警察に話そう、支配人室に来い。まだ支配人もいるはずだから」
「はい…」