The April fools 第十六話

作:蒼馬要


 翌日、写真展は午後十時から開場した。あらかじめ配られた整理券と写真集を購入した客に橘はサインと握手をしていた。
「遼子さん、頑張って下さいね」
「ありがとうございます」
「あのう、次の舞台の予定はあるんですか?」
「未定だけど、近いうちにまたやってみたいと思ってるのよ」
「わあ、楽しみにしています。絶対伺います」
 ファンと楽しそうに会話している橘を見ていると、改めて大きな仕事を任されていたのだなあと思わずにはいられなかった。
 展示会場も混雑を避けるため、来場者の定員制限をしないといけないほどの入りである。
「萱嶋さん、萱嶋さん」
 橘が治樹を呼んでいる。
「はい?」
「この方、萱嶋さんのサインもいただきたいそうです」
「え…でも、僕サインなんて…」
 戸惑っていると、会場のスタッフが椅子を持ってきた。
「こちらでお願いします」
「サインて言ったって、普通にしか書けませんけど…」
「構いませんから」
 本当は断りたいくらいだったが、仕方なく引き受けた。
「いいの、いいの」
 橘と並んで座り、時には握手も頼まれて、治樹は緊張で汗びっしょりになって応対した。
「あと十名です」
「はい…」
 今回は五十人にサインをするが、普段二・三百人はざらなのだという。
「あ…」
 橘と握手をした一人の青年が両手でしっかりと橘の手を握り締めて、なかなか離そうとしない。
「りょ、遼子さん…好きです…好きです…」
 それまで笑顔だった橘も思わず表情を強張らせる。
「君、それくらいで…」
 近くにいた警備員が青年の腕を掴んで引き離そうとするが、暴れはしないものの身体を硬くして抵抗する。
「遼子…さん…遼子さん…手紙…読んでくれましたか?」
 橘の瞳が少し怯えている。治樹もこれは少しまずいと思い腰を浮かせようとした。
「ごめんなさい、他にも待っている方がいますから…」
 橘が気を取り直してそう言い、にっこりと笑うと青年は冷静になったのか、写真集を抱えて尻込みするように後退ってお辞儀をし、治樹の方には目もくれずに会場に消えてしまった。
 河本社長がサッとパーテーションの裏に消えて、会場の責任者を呼んで注意している声が微かに聞こえてきた。
「ああいう客を遼子に近づけさせないで欲しいね」
「すみません…十分注意はしていたのですが…」
 橘はにこやかに次々と残りの客に応対している。
 さっき一瞬見せた怯えた瞳はいつもの橘らしくなかった。サイン会といい、真吾のことを思い出してしまったのだろうか。

 写真展の期間中、治樹は再び夜の張り込みや宿直に仕事を回してもらい、日中は会場に詰めていた。
 期間も半分が過ぎたある日、その日は夜の仕事も無くて、家で千春が夕食を作ってくれる約束をしていた。
 閉館時間が近付き、客足も少なくなってきた頃、橘から電話が入った。
「萱嶋君、今あのお店にいるんだけど、来れる?」
「今日車で来てるんで、お酒は駄目なんですけど…」
「んー、それでもいいわ」
 橘は少し不服そうな口調だったが承諾した。
「じゃあ、七時半には伺います」
 帰りが少し遅れても千春は待っていてくれるだろう。

 店に入ると橘がカウンターに座って一人で飲んでいた。
「珍しいですね、一人で飲んでるなんて」
「だから萱嶋君を呼んだの」
 都合のいい扱われ方をしているなあと思い、治樹は苦笑しながら席に座った。
「ご注文は?」
 マスターがナッツの入った皿とコースターを置きながら聞く。
「車なんで、ジンジャーエールを、すいません」
「何よう、お酒飲まないの?」
「車で来てるって言ったじゃないですか」
 橘は治樹の肩にもたれかかってきた。かなり出来上がっている。
「もう随分飲んでるんですか?」
 マスターに聞くと、空になったブランデーボトルを見せられる。
「わたし一人で飲んだんじゃないわ。さっきまでボスもいたんだから」
 とは言うものの、ほとんど橘一人で空けたのだろう。

 橘は終始明るく笑い、ひっきりなしにおしゃべりを続けていたが、突然驚くべくことを口にした。
「萱嶋君、わたしねプロポーズされちゃった…」
 二本目のボトルが半分空になる頃、橘はぽつりと呟いた。治樹はマスターと顔を見合わせた。マスターも初耳だったらしい。
「もっと驚きなさいよ」
 トロンと据わった目で橘は治樹を睨んだ。
「あの、プロポーズ…って…いつ?」
「それより、おめでとうが先でしょ?」
「あ、すいません…おめでとうございます…え、おめでとうっていうことは…」
「そう、OKしちゃったの」
「いつ?」
「一昨日よ…後部座席を真っ赤なバラでぎっしり埋めた車で迎えに来てくれてね…そういうことする人だなんて思わなかった…わたしその場で…すぐOKしちゃった…」
 橘はあくびをすると、そのままカウンターに突っ伏してしまった。
「橘さん…」
「朝からずっと仕事だったの。もう限界…少し寝かせて…」
 疲れているのなら、すぐ家に帰って寝たらいいのに…いや、それよりも婚約者に会いに行けばいいのだ…

 閉店間際になってやっと橘は目を覚まして、水が飲みたいと呟いた。治樹は家まで送ることになった。
 プロポーズされた女の人が、一人で酔い潰れたりするものだろうか…マンションに向かって車を走らせながら治樹は考えていた。
 誰にプロポーズされたのか知りたい。それは『ショット』のカメラマンとしての職業意識でもあり、また個人的な関心でもあった。しかし今夜は聞ける状況ではない感じだった。
「おやすみなさい」
 マンションの下で橘を降ろすと、フワフワとした足取りで階段を上り、エレベーターの中に入っていった後ろ姿を見ていると、ちっとも幸せそうに見えなくて、返って何だか気の毒に思えてきた。

 「ただいま…」
 十二時少し前に家に帰ると、台所のテーブルの上に夕食が用意されていた。
「千春…ごめん…」
 寝室を覗いたが居なかった。帰ってしまったのか…台所に戻りビールを飲もうと冷蔵庫を開けると、ケーキの箱が入っていた。箱の中には小ぶりのホールのショートケーキが入っていて、白い板チョコに“初写真集おめでとう”とメッセージが書かれていた。千春の家に電話したが深夜だから勿論留守電で、帰りが遅くなったお詫びとお礼を吹き込んだが、随分待ったのに返事は来なかった。
「途中で電話すればよかったかな…」
 自分たちもそろそろ潮時なのかもしれないと治樹は思った。


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