The April fools 第十九話
作:蒼馬要
『ショット』の記事にはならなかったが、事件後、治樹は警察の捜査記録を見せてもらうなどして、真吾が本当に脅迫状通り公演を邪魔するための行動をとっていたのか独自に調べていた。
舞台の袖の上手柱脇に設置されていた照明機材を固定するボルトに痕が付いていることが初日前の点検で見つかっていた。照明スタッフは機材のボルトを専用のレンチで締めているのだが、そのボルトにはペンチかプライヤーで挟んで回したようなギザギザとした瑕疵が付いていたために、関係者以外の者がいじったことが分かっていた。真吾が使っていた道具袋の中に入っていたプライヤーの刻みとボルトの瑕疵が一致したものの、同じプライヤーの入った道具袋は幾つもあり、不特定多数の裏方スタッフが各々使用しているため、真吾が行ったという断定は出来なかった。そのため以降は治樹の仮説になる。
舞台の上手側は真吾が作業を担当する場所で、舞台転換の作業でセットの端がボルトを緩めた照明に当たりでもすれば、落下してくる危険がある。一番背の高いセットはクレオパトラの王座で、真吾が運び出す役だった。写真で確かめると、十分照明機材に触れられる高さがある。
真吾は橘が狙われているように見せかけて、自分が怪我をするつもりだったのではないだろうか。万が一、橘の上に機材が落ちてくるようなことがあれば、真っ先に飛び出して橘を庇い、自分が身代わりになる。
「そんなことが出来るかね。横断歩道で立ち往生している子供や老人に車が突っ込んできて、若者が飛び出していって助けるなんて話がドラマなんかにはあるけど、実際人間は咄嗟にそんな機敏には動けないよ」
河本は治樹の話を聞きながら首を傾げる。
「いえ、真吾には出来たんだと思います。彼は機材が落ちてくることを知っていたんですから」
「ふん…」
ゲネプロの当日、達矢が来ないのでフォーメーションが変わるかもしれないとチーフの中川から聞かされた真吾は計画を中止せざるを得なくなり、緩めてあったボルトを急いで締め直した。そしてその直後に身柄を事務所に確保されたのだ。
「だとしたら、うちの車に当たって亡くなったのは、運が悪かったとしか言いようが無い」
「でも、あの時、熊谷さんが車を駐車場に入れたのは、ボスの指示だったんでしょう?」
二人の後ろに、帰ったはずの橘が立っていた。
「遼子」
「今萱嶋君に話していたのは、全部本当のことなの?」
「…ああ、本当だ」
「熊谷さん、劇場の外で車を止めて待っていたそうね。ボスが電話を掛けてきて、地下の駐車場まで来てくれって言うから、急いで入ってきたら飛び出してきた真吾君を撥ねてしまったって言ってたわ」
「…八時過ぎに人と会う約束があってね。時間が迫っていたから、下まで迎えに来てもらおうと思ったんだよ」
橘は河本を睨んでいる。
「撥ねさせようとしたというのか?」
「ボスなら、それくらいやりかねないわ、そうでしょう?」
「まさか」
河本は笑いながら首を横に振った。
「私が考えているのは遼子、君の成功なんだよ。君は舞台でも成功した。今後も舞台の仕事は増えるだろう」
「ファンの身を危険にさらして、何が成功よ!」
橘は店を出て行った。
治樹は橘の後を追うべきかどうか迷っていたが、河本社長に追う様子が無かったので、店を飛び出した。
橘はフラフラと大通りに向かって歩いていた。走ったのでアルコールが回ってしまったらしい。
「橘さん!」
「萱嶋君…」
「送っていきます」
「放っといて」
橘は振り払うように手を振って歩いていく。
「放っておけませんよ」
治樹は橘の前に回り込んで立ち止まらせた。
「あっちに車が止めてありますから、家まで送ります」
「萱嶋君…」
橘は顔を歪めて治樹に抱きついた。
治樹は車を走らせた。
「萱嶋君」
車の後部座席で橘が呟いた。
「はい?」
「海が見たいな…」
橘はそう言うと、声を殺して泣きじゃくり始めた。
治樹は第一京浜に乗って横浜に向かった。
横浜ベイブリッジが見える埠頭に車を止めると、橘は車から降りた。
「きれいね…」
もう泣き止んでいて、車のボンネットに寄りかかってぼんやりと夜景を見詰めている。
「心が粉々に砕けてしまったみたいな気分よ…」
治樹が煙草を吸おうと火をつけると、橘はその煙草をスッと横取りした。
「わたしの前では吸わないって言ったでしょ」
「あ、すみません…」
しばらく会わなかったからすっかり忘れていた。
「ボスが何故あんなに躍起になってわたしのことを売り出しているのか、教えてあげる」
橘は治樹から取った煙草を捨てず、そのまま銜えて一服した。
「あの人、学生時代にスキージャンプのインターハイ選手だったの。練習中に事故で背骨を骨折してね、脊椎を損傷してお医者さんからはもう自分の足で歩くことは出来ないだろうって宣告されたそうなの。ボスにとってはスキーが全てだったそうよ。その生き甲斐を失って、一時は死ぬことも考えたらしいわ。でも血の滲むようなリハビリを続けて回復して、あそこまで歩けるようになったの」
河本はいつもステッキを持っていて、歩く時に軽く足を引きずっていた。
「今の仕事は、ボスの新しい生き甲斐なのよ」
河本社長が自身にインポーズしていたのは橘を女優として成功させることで、そのためには手段を選ばなかったということか。
「でも、あんなことまでするなんて…」
そこまで言って、橘は咳き込んだ。
「久しぶりに吸ったから、頭がクラクラするわ」
車の灰皿で揉み消すと、再びベイブリッジを眺めながら溢れてきた涙を拭っている。
「これまでだって随分酷いことを耐えてきたんじゃないんですか?」
「ゴシップとか嫌がらせのこと?」
治樹が頷くと、
「ううん、わたしは何とも思ってない」
「ダイヤモンドだから?」
「ダイヤモンドかあ…自信ないな…」
橘は左手薬指のダイヤモンドを翳して見ている。
「この前、望月さんに“君はダイヤモンドに目が眩んだんだな”って言われちゃったわ」
「『金色夜叉』ですね」
「よく知ってるわね」
「それくらいは…」
「宮ぃさんは、愛する貫一さんのために富山に嫁いだけれど、わたしは自分の幸せのために結婚するのよ…」
何だか決まりが悪そうな言い方だった。自分の幸せのために結婚することがいけないことであるかのように。
「…実は、僕も先日プロポーズをしたんです」
「あら、あなたそんな人がいたの?」
橘は目を丸く見開いて治樹を見詰める。
「ええ、まあ…でも、返事は少し待ってくれって言われました」
「そう…いい返事がもらえるといいわね」
「はい…」
そう言えば、千春へ贈る指輪を買いに行った時、店の中で二人連れの客がこんな話をしていた。
ダイヤモンドは鉱物の中でも一番硬いというけれど、その硬い鉱物を加工するにはどうすればいいのかと聞くと、もう一人がダイヤモンドを加工するのはダイヤモンドだろうと答えていた。何やら矛盾する話だが、確かにダイヤモンドの研磨はダイヤの粉をまぶしたやすりを使うのだと店員が話していた。
店員の説明によれば、ダイヤモンドが硬いのは炭素だけで出来ているからなのだという。しかし鉱物が生成される際、炭素以外のものが僅かに包含されてしまう。だから天然のダイヤなどには特に宝石の内部に目に見えない小さな傷などがあり、金槌で叩いたら粉々に砕けてしまう場合もあるのだという。本当のダイヤほど案外脆いものなのだ。