The April fools 第二十話

作:蒼馬要


 空が白み始める頃、治樹は車を東京に向けた。助手席の橘がラジオをつけると、ドイツでベルリンの壁が崩壊したというニュースが流れた。嘘みたいな話に治樹と橘は顔を見合わせて笑った。

 マンションの前で車を停めると、橘は名残惜しそうに治樹に抱きついた。
「橘さん…」
「わたしね、四十九日の後にボスと真吾君のお宅に伺ってきたの」
 他誌の記事にも載らなかったし、治樹も知らないことだった。
 焼香を済ませた後、橘だけ真吾の部屋に入れてもらったそうだ。東京の親戚の家にあった遺品が全て戻ってきていて、机の上には教科書や文房具と一緒に、カメラのカタログが何冊も置かれていたそうだ。
「夏休みもお盆には帰省する予定だったらしいんだけど、夏期講習に通うから帰れないって電話があったんですって。お金が要るんじゃないのかって聞いたら、詳しいことは言わなかったそうなんだけど、バイトをするから大丈夫だって言ってたそうよ」
 親戚や学校に内緒でアルバイトを始めて、最初は橘に会えることを期待していたのかも知れないが、働き続けていたのは、お金を貯めて、新しいカメラが買いたかったからだったのかも知れないということだった。
「稽古場で、萱嶋君とカメラの話をしていたでしょ」
「はい…」
 治樹の持っていたカメラを、そして治樹が橘を撮っている様子を熱心に見ていたことが思い出される。

 十二月になって、橘は今年一杯で事務所を辞めることを発表した。河本社長の体調不良がその理由とされたが、二人の考え方の食い違いであることは明白だった。
 槙原の会社のCMが橘と河本の最後の仕事となった。
 次の移籍先は望月美津留の事務所に決まった。マネージャーの桑折と蓮見も一緒に引き抜かれた形だ。望月の事務所には今年アイドルグループを解散した倉田誠也も所属している。
 年明け初めに橘はその倉田と舞台共演の発表がある。

 年末年始シフトの詰まったスケジュールで治樹が忙しく飛び回っている最中、千春から手紙を貰った。プロポーズは受けられないというもので、治樹は直接会ってその理由を聞いた。
 千春は夏頃から取引先の会社の担当者と親しくなっていた。治樹が橘との仕事に追われていた時期で、初めは治樹とあまり会えない寂しさなどを相談したりするような間柄だったらしいが、親身になって話を聞いてくれることから、次第に惹かれ合うようになり、治樹がプロポーズする数日前にその相手からもプロポーズをされていたのだという。
「わたしは治くんがカメラマンの仕事を頑張っている姿が一番好きよ…でも、彼はわたしを一番大切にするって言ってくれたの…」
 千春はそういって泣き出してしまった。
 治樹だって千春を一番大切にしているつもりだった。しかし任された仕事を投げ出してまでも千春を優先するなんてことは出来ない。自分の仕事に対する態度を認め、評価していると言いながら、結局は自分が一番でなければ満足しないのかと思うと、引き留めようと苦心するのも次第に馬鹿らしくなってきた。
「千春…」
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
 喫茶店のテーブルの上には治樹が渡した指輪が置かれていた。涙を拭う千春の薬指には自分が買ったのよりもずっと小さなダイヤの付いた細い指輪が光っていた。

 治樹は年が明けたら吉祥寺から目黒に引っ越す計画を進めていた。千春と一緒に暮らすことを考えて、キッチンやリビングの広いメゾネット式の新築マンションを選んだ。写真集の印税も入ることを見越しての一大決心だったのに。
 一人で暮らすには広過ぎる…千春を慰めながら、治樹はぼんやりとそんな詰まらないことを考えていた。

 クリスマスに予約してあったホテルも当然キャンセルし、治樹は寂しい年の瀬を過ごした。

 三月になって橘が主演する舞台『伯爵の釵』の制作発表が開かれた。治樹はしばらく政治家や事件、事故現場の取材をメインにしていたが、久しぶりに芸能関係の取材に回された。
「では、演出家の加茂先生の方から、今回の舞台に対する…」
 宣伝用の豪華な振袖を身に付けた橘と、三つ揃いの古めかしいスーツを着て薄く口髭を生やした共演者の倉田誠也、そして小劇場系の劇団主宰者で今回初めて商業演劇に携わることになった演出家の加茂幸秀の三人を両側から主要出演者が十名程で囲むようにしてステージの上に並んでいる。
「橘さん、倉田さん、笑顔こっちにくださーい」
「腕を組んでいるところをお願いします」
 治樹は客席の下手の方から各役者の表情を撮っていた。
 橘はカメラの砲列一つ一つに笑顔を向けるようにゆっくり一巡二巡し、間も無く治樹の存在に気付いた。治樹の方を見詰め、艶然と微笑んだ。ファインダー越しに治樹は目を細めた。

 宣材用に配られた演目や出演者の資料を持って記者と一緒に編集部に戻り、そのまま帰宅すると、留守番電話の着信ランプが点滅していた。
 治樹は急いでタクシーを拾い六本木に向かった。


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