The April fools 第二十一話
作:蒼馬要
「三十分待ったわ。普通なら五分待って来なかったら帰ってしまうんだから」
治樹は首をすくめた。目黒に引越してきて唯一良かったのは都心の盛り場にすぐ出向けることで、そのせいで休日に召集を掛けられると、大概一番乗り出来るようになった。
「来れるかどうかも分からないのに…勝手ですね…」
「でも来てくれたじゃない?」
橘は確信犯の笑みを浮かべる。
「シーバース、ロックで」
そう言って治樹は席に座った。
「再会を祝して、乾杯」
グラスを軽く当てると、橘は一口飲んだ。グラスに螺旋状に切ったレモンの皮を入れたブランデーのジンジャーエール割、ホーセズネックというカクテルを橘は好んで飲んでいた。
「プロポーズ、どうなった?」
「…玉砕ですよ」
もうその件については触れて欲しくなかったのだが。
「先約があったようです」
「あらぁ…」
このまま酔ったら泣いてしまいそうだった。泣くのを堪えて大まかな振られたいきさつを説明した。
「女ってね、愛してくれる人を愛したいものなのよ…」
橘はそう言って微笑んだ。
「それ、どういうことですか?」
泣き上戸の前に絡み上戸になりそうだ。
「自分を一番大事に考えてくれているんだって保障があって、初めて本気でその相手を大切に思える…と言えばいいのかな…」
「そんなのずるいじゃないですか…」
「そう、ずるいわよ。だって自分の気持ちに自信が持てないんだもの」
「自信が持てないって…自分の気持ちなのに?」
「自分がいくら相手を好きで、どんなことがあってもその人を支えて、一緒に生きていきたいと思っていても、相手にその気が無ければ、自信なんて持てないものでしょ?」
「それはそうですけど、僕は彼女を大切に思っていましたよ…そりゃあ仕事が忙しくて、約束をすっぽかしたこともありましたが…そういう僕を認めてくれているんだと思っていたんです…」
「仕事にひたむきな萱嶋君もそれは魅力的だと思うけれど、自分のことを忘れてどこかに行ってしまうんじゃないかって不安になったのかも知れないわね…」
橘の言うことには一々思い当たる節があった。
「自分勝手にしていたことは認めますよ。だって仕事と恋愛を両立させられるほど僕は器用じゃないですから」
「じゃあ、当分仕事一本で頑張ってみなさいよ」
「そんなこと言って、橘さんはスクープカメラマンやってる僕が嫌いなんでしょ?」
いじけて呟くと、橘は治樹の手の上にソッと自分の手を載せ握り締めた。
「一人の人の全てが好きなんてこと有り得ないわ。好きになれない部分があってもそれを許せるか許せないかなのよ」
「橘さん…」
「萱嶋君が全精力を傾けて撮ってくれたわたしの写真を見れば、あなたの誠意が分かるし、前に見せてくれた可愛い姪御さんの写真にも、あなたの優しさが滲み出ていた。だからわたしは萱嶋君が大好きよ」
誉められて嬉しくない人なんて居ない。しかし治樹は誉められるのがどうも苦手だった。どうリアクションをすればいいのか困ってしまうのだ。橘の目も見返すことが出来ず、少し頭を下げて黙ったままグラスを空けた。
ずっと沈黙が続いたので、マスターが気を遣って店内に流れるBGMのボリュームを少し上げた。
In an April dream once you came to me.
When you smiled I looked into your eyes.
And I knew I’d be loving you…
And then you touched my hand.
And I learned April dreams can come true.
Are we just April fools?
Who can’t see all the danger around us?
If we're just April fools
I don’t care; true love has found us now…
映画『幸せはパリで』のテーマ曲、『The April fools』だ。
ジャック・レモン演じる、仕事は出来るが家庭ではまるでさえない中年サラリーマン、ハワードは社長宅で開かれたパーティでカトリーヌ・ドヌーブ演じる美しいフランス女性カトリーヌと出会って恋に落ちる。カトリーヌは社長夫人なのだが、夫との仲はうまくいっていない。意気投合したハワードとカトリーヌはパーティーを抜け出し、夢のような一時を過ごす。カトリーヌは夫と離婚しパリに帰ろうと決め、ハワードも昇進をしても相変わらず冷たい妻と別れようと決心する。カトリーヌは夫の制止を振り切ってパリ行きの飛行機に乗るため空港に行く。ハワードも会社を辞め、家庭も捨ててカトリーヌの待つ空港へ。二人はパリで新しい幸せを掴むべく駆け落ちする…という物語だ。
ビリー・ワイルダーにはまっていた時期に、ジャック・レモン絡みで一緒にレンタルビデオで借りて見た映画だ。監督がスチュアート・ローゼンバーグで、あまり強い印象は持たなかったけれど、こんな二人がパリに行って新生活を始めても、本当に幸せになれるのだろうかと疑問に感じた。しかし作品全体はロマンチックコメディ路線なので、そんなに真剣に考える必要はないのかも知れないとも思ったものだ。
ディオンヌ・ワーウィックの歌は甘く軽やかで、映画の原題がこの『The April fools』だと分かった時は、エープリルフールの意味が、単に罪の無い嘘をついて人を担ぐ遊びではなく、春の浮ついた季節につい羽目を外してしまう“四月のお馬鹿さんたち”を指しているのではないかと思った。
Little did we know where the road would lead?
Here we are the million miles the away from the past
Traveling' so fast now there's no turning back
If our sweet April dream doesn't last
Are we just April fools?
Who can’t see all the danger around us?
If we're just April fools I don’t care
We'll find our way somehow
No need to be afraid. true love has found us now…
夢の中に微笑みながら現れた美しい女性に恋してしまうなんて、その恋が真実だと確信してしまうなんて…でも、もしかしたら夢が現実になるなんてこともあるのかも知れない。
今夜もそんな夢が叶うかもと期待してしまいたくなりそうな春の宵だ。
それからどれくらい飲んだのか治樹は覚えていない。
しかし、猛烈な二日酔いによる頭痛で目が覚めると、そこは自宅のベッドの中だった。
「どうやって帰ってきたんだろう…」
ズキズキするこめかみを押さえながら、階下のキッチンに下りて冷蔵庫のミネラルウォーターのボトルを取り出し、ゴクゴクと飲み干した。
「あれ…」
人心地ついて、椅子に座ると何となく身体に違和感がある。
「あれ…あれ…」
Tシャツの首の所を伸ばして胸に鼻を近付けると、自分の身体に女物のコロンの匂いが汗と混じって残っている。橘がいつも付けているコロンだ。
「え…」
リビングのテーブルの上に書置きが載っていた。
「クローゼットにあったジャージとTシャツとスニーカーをお借りします―――遼子」
千春が家に泊まる時用に用意してあった女物のジャージとテニスシューズのことだ。引越しの際、そのまま捨てずに持ってきていた。
「ここに来たの?…っていうか、え…まさか…」
ベッドに戻って屑入れを覗き、その痕跡を見つけて治樹は愕然とした。
「…やっちゃった…」
再びベッドに倒れ込み、必死で混乱した頭の中を整理しようと試みた。
「駄目だ…駄目だ…駄目だ…駄目だ…」
誰にも黙っていたが、しばらくの間生きた心地がしなかった。