The April fools 第二十四話

作:蒼馬要


 発売日の昼、その日治樹は休日だった。久しぶりの床屋の帰りに近所の定食屋に入ると、食事を終えた若いサラリーマンが二人『ショット』を読みながら話していた。
「普通に実業家と結婚しちゃうかと思ってたけど、やってくれるよなぁ、橘遼子も」
「ああ、一人の男のものになるってタイプじゃないんだな」
「そうだな、彼女にするには相当持て余しそうだよ」
「ははは、橘遼子がお前なんかの恋人になるか」
「なったらの話だってば。あの倉田誠也を振って、糟糠の妻がいる演出家を奪うなんて付き合いきれないよ」
「正直、現実味は全く無いもんな…」
 岡目八目とはよく言ったもので、わりと的確な批判が出来るものだ。

 家に帰って横になっていると眠り込んでしまった。電話の音で目が覚めた。
「はい、萱嶋です…」
 時計を見ると九時。
「萱嶋君」
「…橘さん?」
「そう、時間ある?飲みに来なさいよ」
 行くべきか、断るべきか、それが問題だ。
「…行きます」
 仕事絡みの好奇心から、治樹は財布を尻のポケットに突っ込んで家を出た。

 「槙原に怒られちゃった。どういうつもりなんだって」
 開口一番、橘はそう言ってグラスの中身を飲み干した。
「どういうつもりも何も、キスしたくなったからしただけなんだけど…」
「そりゃあ、婚約者なんですから怒るでしょう」
 橘はそうかしらという感じで治樹を見る。
「槙原はね、わたしが婚約して自分の占有物になったと思ってるのよ。プロ野球選手の広川さんや、倉田君と噂が立った時もそう。証拠が無かったから何も言わなかったけど、それが今回のことで一気に噴き出して、女優なんか辞めてしまえとまで言われたのよ」
 それは随分な話だが、橘にも意地があるらしい。
「わたしはあなたの好きな高級車やスポーツカーとは違うのって言ってやったわ」
 ホーセズネックのおかわりが置かれて、橘は一口飲んだ。
「…婚約、解消するかもしれない…」
 そんなこと、『ショット』のカメラマンである自分に言ってもいいのだろうかと治樹は内心ドキリとした。
「加茂先生の彼女も随分怒ってたなあ…」
 とんでもない修羅場でもあったのだろうか。
「でも、加茂先生が一番大事に思っているのはあの方なんだって分かったわ。わたしとの付き合いは今の芝居の間だけ」
「普通はそうなんじゃないですか」
「仕事で出会った人を好きになるって、いけないことなの?」
 橘は納得いかないという顔で治樹を睨む。
「既婚者や、恋人がいる人を好きになっても、トラブルになるだけでしょう」
「じゃあ萱嶋君はそういうことを一々調べてから好きになったり諦めたりしているわけ?」
 橘の恋愛に関するセオリーは常人には理解しがたいものがある。
「好きになるのは自由ですよ。でも路上でキスしちゃまずいでしょ」
 橘は眉間に皺を寄せる。
「そういうネタでご飯食べてるくせに」
 返す言葉がなかった。仕事とは言え有名人の惚れた腫れたを追っかけていることは否定しようが無い。
「…でも僕は、カメラマンて仕事で、これからも飯を食っていきたいんです」
 治樹が素直に認めると、橘は肩透かしを食らったような表情だ。
「そう…」
 橘はふっと溜息をついた。
「…そうよね…わたしの勝手で、傷付く人もいるのよね…」
 橘がダイヤモンドのように強ければ、その橘によって傷付く人も多いのだ。
 自分の自由を通すことで、辛い思いをする人たちがいるという現実を、人はなるべく見ないようにしてしまう。
 ファンの青年を事故死させてしまった河本社長や、スクープカメラマンの治樹を責める橘自身も、実際には恋愛のゴタゴタが原因で人を傷付けているのだと気付いたのだろう。
「萱嶋君」
 橘は熱っぽい瞳で隣りの席に座っている治樹を見詰めた。
「はい」
「萱嶋君は、わたしと係わったこと、後悔してる?」
 写真集の仕事のことを言っているのだろうか、それともあの晩のことを言っているのか。
 あの記憶の飛んだ夜のことは思い出せないなりに、ことあるごとにフィードバックする。
 二年前にはこんなことになるとは想像もしていなかった。得難いものを得て、いくつかのものを失った。
「…いい経験だったと思っています」
「嘘ばっかり。正直に言いなさいよ」
「本当です。橘さんこそ、僕と係わって嫌な思いしてるんじゃないですか?色んなことがあって…」
 橘は治樹の質問にプッと吹き出した。
「嫌な思いしたような人と一緒に飲んだりしないわ」
 そう言うと耳元で囁いた。
「これから萱嶋君の家で飲み直そうかな」
 にっこりと笑っている。
「からかわないでくださいよ」
 冗談で言っていると分かっていても、治樹が焦って断ると、
「警戒されてるわね」
 不貞腐れる態度もやはり女優然としている。
「わたしが好きになる人って、みぃんなわたしから離れて行ってしまう」
 橘が好きになった人…自分も含まれているのだろうか…あとは誰のことだろう…加茂、望月、倉田誠也…以前話してくれた癌で亡くなった作家…そして河本…
「最近、河本さんとはお会いになっているんですか?」
「事務所の後処理は代理人に頼んでやってもらったけれど、わたしも同席したことは何回かあるわ。でも最近は会ってない…」
 河本は芸能界から身を退き、現在は有能な経営コンサルタントとして幾つかの企業の特別顧問をしているのだという。
「わたし、ボスのことは絶対許さないと思っていたんだけど…熊谷さんの身元保証人になって、新しい就職先も親身になって探してくれたんですって」
 橘はグラスを揺らして氷をくるくると泳がせながら呟く。
「もちろん、それはボスの責任だと思うけど…」
 真吾が死んだことだって、河本にとってみれば予想外だったはずだ。

 支配人室のデスクの引き出しにしまってあった、真吾の書いた脅迫状は、最終的には警察に提出することになったのだが、支配人はこれ以上問題を大きくしてはいけないと考えて処分しようとも考えていたらしい。河本も賛成していたという。

 「萱嶋君はジャーナリストだから、真実を追究したいのかもしれないけど…」
 自分がジャーナリストだなんて、真面目に考えてみたことも無かったが。
「知らないほうがいいことだって、沢山あるのよ…」
 治樹が河本に真吾のことを問い詰めなければ、橘は河本と別れずに済んだのかもしれない。橘はそのことを言っているのだろうか。
「橘さん、本当は…河本さんのことを一番…」
「それ以上言わないで」
 橘は治樹の口に人差し指の指先を当てた。
「駄目ね、萱嶋君といると、わたし余計なことまで喋っちゃうわ」
 グラスの酒を飲み干すと、橘は席を立った。
「帰るんですか?タクシー拾ってきましょうか」
「いいわ、自分で探すから。おやすみなさい」
 橘の背中を見送って、治樹はもう一杯飲んで家に帰った。


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