The April fools 第二十五話
作:蒼馬要
八月に初日を迎えた舞台、『伯爵の釵』は前作『クレオパトラ』よりも小さな劇場での公演だったが、前作に劣ることなく好評で、追加公演も含めて連日の大入りだった。
治樹は平日のマチネにわずかに残っていたチケットを買って後ろの方の席で観劇した。
スポンサーの一つであるジュエリー会社がこの舞台のために特別に作ったという鸚鵡の釵は、遠目に見てもキラキラと美しく輝き、橘演じる女優紫玉を鮮やかに際立たせていた。
「…でもね、竜宮へ往来した釵の、玉の鸚鵡なんだもの。太夫様、太夫様…なんて、物を言おうも知れない…」
昼間、滝壺に紫玉は不注意から釵を落としてしまう。午後になってその滝の上にある大池に船を浮かべて遊んでいると、池の鯉が船の中に飛び込んでくる。そして夕刻、池のほとりにある料亭の座敷で鯉の腹を裂くと中から釵が出てくるのである。その釵を挿した紫玉が宵に公園を歩いていると頭上から声がし、釵の鸚鵡が声を掛けたように感じられ歩を止めるという場面。
実は廃残した乞食坊主の声で、物語は奇怪で異様で、それでいて逃れ難い魅力を秘めた異界へとなだれ込んでいく。
休憩時間になり、喫煙コーナーのロビーに行き一服していると、視界にゆっくりとステッキを突きながら歩いてくる人の足元が見えて、顔を上げると河本が立っていた。
「河本社長…お久しぶりです」
「隣り、座ってもいい?」
返答を待たず、すぐにどかりとソファーに座り、
「もう社長じゃないよ」
そう言いながら胸の内ポケットからシガレットケースを出して煙草に火をつけた。
「経営コンサルタントでしたっけ」
「知人のコネだから、名前を貸してるだけみたいなものだよ」
河本は半分も吸わずに煙草を揉み消して立ち上がった。
「じゃあまた」
ステッキを突きながら、出口の方へとゆっくり歩いていく。
「最後までご覧にならないんですか?」
治樹が聞くと、
「いいんだ。もう十分だよ」
そう答えて河本は劇場を出て行ってしまった。
九月に関西の劇場で公演を終え、東西ドイツが統合した十月の上旬、橘は槙原との婚約解消を発表した。加茂とのスクープ以前から不仲説はあったし、橘が治樹に話したように、性格の不一致が何よりの理由なのだろう。婚約解消会見は別々にそれぞれの代理人が行うという、実に淡々としたものだった。
十一月になり、徹夜の張り込み明けで帰社した治樹は、家に帰るのも面倒なのでそのまま仮眠室で眠ってしまった。
空腹で目を覚まして時計を見ると昼近くだった。昨日晩飯を食べたきりだ。起き出して冷蔵庫の中を漁っていると、デスクの野間に呼び止められた。
「萱嶋君、今から同行出来るかな」
「夜からまた交替で張り込みに行くんですけど、それまでなら空いてますよ」
「そう、だったらこれから大手町まで竹内さんと同行してくれる?夕方までには終わると思うから」
記者の竹内から全日本学生音楽コンクールのチラシを手渡された。
今日、声楽部門の最終予選会があり、その後優勝者の取材があるのだという。
「学生なんか撮って、うちの記事になるんですか?」
「ああ、この声楽部門の女の子ね」
竹内はタクシーの中でプログラムを指差す。
「芸大の二年生なんだけど、去年の大会で優勝しているんだよ」
「それって、そんなにすごいことなんですか?」
「一年生から優勝するのは珍しいらしいよ。しかも彼女、本格的に声楽を始めたのは大学生になってからだというから。で、今年も優勝候補なんだ」
七月には第9回チャイコフスキー国際コンクールのバイオリン部門で、大学一年生の諏訪内晶子が優勝するなどして、今年はクラシック音楽界のホープが話題となっているらしい。
「へーえ…でも歌が上手いってだけじゃ、うちの記事にはならないっすよ。美人なんですか?」
「見れば分かるよ」
受付でプレスカードを貰い、諸注意を受けた。
「演奏中のフラッシュ撮影はご遠慮ください」
関係者席に座るとすぐに始まった。
「一端にプロ並みなんですね」
竹内は文化芸能関係に詳しいので、指示されるままに撮影すればいい感じだ。
「萱嶋君はクラシックとか、聞きに行くことあるの?」
曲の切れ間に聞かれた。
「いやぁ、すすんで聞きに行くってことは無いですね…デートで誘われて、サントリーホールに海外のオーケストラの演奏を聴きに行ったことがありますけど、ずっと寝てました」
「今日は歌だから、面白いよ」