The April fools 第二十六話
作:蒼馬要
そう言われたものの、治樹はすぐにウトウトと船を漕ぎ出してしまった。
「やばいです、眠くなってきた…」
無理も無かった。前半は三曲程度の課題曲を歌うので、同じ曲を何度も繰り返し聞かされていたのだ。
「萱嶋君、ほら…」
欠伸を噛み殺しながらステージに目を向けると、白いブラウスの上に水色のモヘアのカーディガンを羽織り、紺色のフレアスカートという控えめな服装の少女が出てきて、今まさに歌おうとしていた。
「あれが、例の?」
「そう、片桐なつめ」
見た感じは少し地味だったが、歌いだすととても華やかな印象に変わった。堂々としていて、それでいて声には透明感がある。それに、
「なかなかの美人じゃないですか」
小声で竹内に言うと、だろ?という顔で笑う。
休憩時間に治樹はロビーの売店でコーヒーを注文した。
「アイスコーヒーの氷抜きで」
濃く入れたコーヒーを飲むと、いくらか目が覚めた。
「サンドイッチ食べる?」
「いえ、腹が膨れると余計眠くなりそうだから」
竹内はサンドイッチをパクつきながら、プログラムに書き込んだメモを確認している。
「優勝は片桐で決まりですか?」
煙草に火をつけ一服する。
「いや、もう一人上手い子がいたな…片桐の二人前に歌った…この子、佐倉美歌…一年生か。これから自由曲を歌うから、それを聞かないと分からないけど、この二人の争いになりそうだね」
治樹は眠っていて佐倉美歌の顔は見ていなかった。
治樹は眠いのを堪えて、自由曲に耳を傾けた。
「佐倉美歌」
名前を呼ばれてステージに現れた少女はポニーテールにしても背中の中程まで垂れる長い髪、赤いカットソーのアンサンブル、膝丈の黒のタイトスカートという、片桐とは対照的な印象だった。
佐倉美歌は『カルメン』の有名な曲『ハバネラ』を歌った。
恋は野の小鳥 誰も飼い馴らせやしない
いくら呼んでも拒まれてしまえば無駄というもの
脅したって泣いたって 口説いたって駄目よ
私が好きなのは別の人 無口な素敵な人が好きなの…
言い寄る男たちの誘いを一蹴するカルメンの陽気で勝気な歌を魅力的に歌う姿は、とてもまだ十代とは思えなかった。
「レベル高いっすね…」
クラシックに詳しくない治樹にも、上手さは伝わってくる。
「思い出した、この子去年までは大阪地区コンクールの高校生部門で毎年優勝していたんだ」
ステージを見たまま、竹内が呟く。東京の大学に入学したので、初めて東京地区にノミネートしたらしい。
片桐はプッチーニのオペラ『ジャンニスキッキ』の『わたしのお父様』を歌った。
おお、わたしの優しいお父様
わたしはあの人が好きなの
あの人はとても美しいの
わたしは行きたいのポルタロッサに
指輪を買いに行きたいの
聞いているこちらの声帯まで絞り上げられそうな気がしてくるソプラノの高音域を、まるで楽器のように難無く出せることにも感心した。
自由曲の中でも、二人の少女は他の追随を許さずに完璧に歌い上げた。
「萱嶋君はどっちが勝つと思う?」
審査に入っている間、治樹と竹内はロビーで煙草を吸いながら話していた。
「好みで言ってもいいですか?」
「うん」
「ポニーテールの佐倉美歌って娘がいいです。なんか頑張って歌ってる様子とかも可愛かったし…竹内さんはどうなんです?」
「僕はね、片桐の方が勝つと思う」
「どうして?」
「佐倉が歌った『ハバネラ』っていうのはメゾソプラノの曲なんだ」
「メゾソプラノ?」
竹内は左右の手の高低で音域を説明する。
「ソプラノとアルトの間に掛かる音域でね、従来のソプラノに比べて少し音域が低いわけ」
「肉の焼き方で言うとミディアムレアみたいなものですか?」
「ははは、まあそんなもの。片桐の歌った『ジャンニスキッキ』って曲は正統派のソプラノ曲なんだ。あの二人がノミネートしているのはソプラノ部門だから、選曲としては片桐が断然有利なんだよ。だからそれぞれが完璧に歌いこなしたとしたら、軍配はやっぱり片桐に上がるっていうわけ」
「はあ、そういうものなんですか…で、佐倉も別にソプラノの曲が歌えないってわけじゃないんでしょ?」
「ああ、課題曲ではちゃんとソプラノの音域を出してたからね」
「じゃあ佐倉は分が悪いと分かっていて、敢えてそのメゾソプラノの曲で勝負したんですか?」
「そういうことになるね」
「何ででしょうね?」
「さあ、分からないけど…『ハバネラ』は技術的には結構難しい曲だよ。表現力も必要だからね。萱嶋君も上手いって思ったんだろ?」
「素人目ですが」
結果は竹下の予想通り、片桐が優勝し、佐倉は二位入賞だった。
優勝者は控え室でインタビューを受ける。会場に来た際に受付で取材を申し込んだので、順番はほとんど最後尾だった。
「ちょっとトイレに行ってくるわ」
売店は閉じてしまい、何もしないでいるとまた睡魔が襲ってきそうで、竹内を待ちながら、治樹はロビーの喫煙コーナーでタバコを吹かしていた。
「あ…」
キャメルのピーコートを着て、つかつかと楽屋の方から歩いてきた少女が目の前を横切って行こうとした。
「あなた、佐倉美歌さんですよね?」
声を掛けると、少女はくるっと振り返った。治樹は吸っていたタバコを灰皿に置き、ソファーから立ち上がって近づいた。思っていたよりもずっと小柄だ。治樹は百八十少しあるから、大概の女の子は小さく感じるのだが、百六十も無いくらいで、肩も手足も華奢で、よくあんなに大きな声が出せるものだと改めて感心した。
「はい、そうですけど…」
治樹は一礼して上着の胸ポケットから名刺を出し佐倉に渡した。
「週刊『ショット』の萱嶋です」
佐倉はほとんど見もせずにコートのポケットにしまってしまう。
「何ですか?」
ぶっきらぼうな言葉遣いに、治樹は声を掛けたことを少し後悔した。態度悪いな、この子…しかし可愛い子であることには変わりはない。せっかく来たんだから一枚は撮っておきたい。気を取り直してカメラを構えてファインダーを覗いた。
「よろしいですか?ステージの上での写真は撮ったんですけど、お一人のを一枚」
「やめてください!」
手でカメラを払い除けるように遮られた。カメラマンにとってレンズを触られたり汚されたりするのは何よりも嫌なことなので、治樹はカメラを下ろして佐倉を見た。
「どうして?写真撮られるの嫌い?」
「優勝したのは片桐さんです。まだ楽屋にいますから、そちらに行けばよろしいでしょ」
治樹の質問には正確に答えない。
「ああ…取材の順番を待ってるんですよ。うち一番後だから、まだ時間があるんだ」
佐倉はさらに不機嫌な顔になった。
「でもさ、君だって二位に入賞したんだよ。まだ一年生なのにすごいじゃない」
治樹は誉めたつもりだったが、佐倉は目を伏せ、眉間を顰めた。
「…優勝しなきゃ…意味が無いんです…優勝じゃなきゃ…」
佐倉は声を震わせ、独り言のように呟いている。高校時代はずっと優勝していたというから、今回優勝を逃したのがよっぽど悔しかったらしい。
「じゃあ、優勝したら撮らせてくれる?」
治樹が何気なく言った言葉に、佐倉は頬を上気させて睨みつけてきた。
「てんごう口言わんといてください!」
これまでは大阪大会に出ていたと言っていたから、関西の子なのだろう。関西弁喋る女の子って可愛いな…そう思いながら治樹が微笑むと、美歌は恥ずかしそうにハッと口を押さえた。
何気なく楽屋の方に目を向けると、竹内が来いという手振りをしている。
「本気だよ、優勝したら必ず撮らせてよ、ね?」
治樹はもう一度お辞儀をして、灰皿の吸いさしの煙草を吸うとすぐに揉み消し、荷物を担いで楽屋前に向かった。
「もう順番ですか?」
「萱嶋君、張り込みに行かなきゃ駄目なんでしょ、このまま順番待ってると遅くなるから換えてもらったの」
「あ、どうも…」
竹内が以前勤めていた音楽雑誌の後輩とトイレでばったり会って、訳を話したら快諾してくれたのだという。一緒に礼を言った後、すぐ取材の番が来た。
薄化粧の片桐なつめもまた、ステージで見た印象よりも小柄だった。
「週刊『ショット』の竹内です。こちらはカメラマンの萱嶋です」
「よろしくお願いします」
受賞のインタビュー取材というのは初めてだった。竹内の質問に一つ一つ丁寧に答える片桐の態度には好感が持てた。歌うことが楽しくて仕方が無いといった熱心な眼差しが印象的で、治樹は何度もシャッターを切った。
「では、最後にもう一つお聞きしたいのですが、片桐さんには現在お付き合いしている方はいらっしゃいますか?」
片桐は突然のプライベートな質問にパッと頬を赤らめると、それを誤魔化すように首を軽く横に振って、
「いません」
と答えて軽く微笑んだ。
「ありがとうございました」
二十分ほどの取材を終えて、治樹は竹内と会場を出た。