独楽鼠回向の花束 第1話
原作:ダニエル・キィス『アルジャーノンに花束を』
翻案:蒼馬要
江戸時代の情報発信基地と言いますと、浮世床、浮世風呂と相場が決まっておりまして、吉原や岡場所、茶屋の看板娘の評判から、芝居、見世物、寄席といったあらゆる風俗の情報が得られる場所となっています。
男1 お前さん、両国広小路に小屋掛けしてる見世物、見に行ったかい?
男2 ああ、鼠博士てえ看板のだろ?ありゃあ驚いたな。
男3 おう、何が鼠の博士なんだい?
男2 鼠の博士じゃねえ、鼠が博士なのさ。
男3 はてな
男1 とにかく賢い鼠なんだ。見た目は普通の独楽鼠だが、和歌をたしなみやがる。
男3 和歌ってえと、あの百人一首とかいうやつかい。
男2 そうさ、上の句を詠むと、下の句の札をくわえて持って来るのさ。
男3 ほう、百人一首と言うからには、札は百枚もあんだろ?それをそのチュー公は全部覚えてるってのかい?
男2 そうらしい。俺は気がみじけえから、途中で出てきちまったけどな。
男1 俺は最後まで見ていたぜ。ものの半時もたたねえうちに全部揃えちまった。
男2 お前は大方あの和歌を詠んでいた支那娘に見惚れてたんだろうさ?
男1 へっ、おきやがれ。
男3 はははっ!だがそんなにえれえ鼠博士とやら、俺も一度拝ませてもらおう。
男1 おいおい、お前和歌が分るのかい?
男3 いやわからねえ。
男2 大方こいつも支那娘がお目当てよ。
湯船の中で盛り上がっている三人の話に、さっきから洗い場でしきりと聞き耳を立てている者がおりまして、桶屋の八五郎の所に厄介になっている与太郎の吾助でございます。
吾助はさる大店の総領として、乳母日傘で育てられたのですが、年が長じるにしたがって、少々おつむが弱いということが分ってまいりました。
手習所に通わせるのですが、商人に大事な算盤は絶望的。字も手前の名をかなでやっと書ける程度。それでも親の欲目、この子は頭が悪いんじゃない、人より少し覚えが遅いだけのことと、泣いて嫌がる吾助に無理やり読み書きを教えたりもしていたのですが、四つ下の弟茂平が誠に出来が宜しく、親は次第に弟の方に期待を移していきます。
茂平が二十四になり嫁を娶ると、父親は身代を譲り、妻とともに隠居をしてしまい吾助は三十を前にして、家を出ることとあいなります。それでも何か手に職を付けられれば、食いっぱぐれることはないと考えた父親は、店に出入りをしていた桶屋の八五郎に、吾助の面倒を頼んだのです。
八五郎も始めのうちは、吾助を桶職人にしようと努力していたのですが、何を教えても聞いた端から忘れてしまうものですから、今では荷物運びや掃除など、雑用をさせておりました。
その吾助が、さっきからずっと男たちの話を聞いていたのです。
吾助 賢い鼠かあ…
昔、浅草に連れて行ってもらった時のこと、境内の中でヤマガラという小鳥が小さなお宮の中に入って器用にお御籤をくわえて戻って来る見世物を見て、吾助は実に驚いたものでした。この頃は両親もまだ吾助に期待を掛けていたものですから、小鳥でさえこんなに賢くなれるのだから、吾助もこれからどんどん賢くなる、そのためには勉学に打ち込まなければ駄目だと諭されていたのです。
吾助は早速帰って親方に切り出します。
吾助 親方、あの、あの…
八五郎 どうした
吾助 おいら見世物が…見たいんだ…
八五郎 見世物?そりゃ何の見世物だい?
吾助 ねずみはかせってえの…
吾助は風呂屋で聞いた話を懸命にします。八五郎は今まであれが欲しいこれが欲しいとねだったことのない吾助が、こんなに真剣な様子で話すので、懐から財布を取りだし、小銭を選ると吾助の前に置きました。
八五郎 あした回向院裏に届け物があるから、その帰りにいってくりゃいい。
吾助 お、親方
翌朝、吾助は桶を括りつけた背負子を担ぐと帯の間にしまった小遣いを何度も確かめて出掛けました。
届け物を済ませ、吾助は見世物小屋を探します。
雪 大人は二十文、子供は十文
見物料を払う段になって、吾助は帯に挟んでおいたはずの銭が無くなっていることに気付いて呆然といたします。人ごみの中で落としたか、掏摸に掏られたか、吾助は帯に手を入れたまま、きまり悪く後ずさりいたします。
雪 どうしたの?見るんじゃないの?大人は一人二十文よ。
吾助 あ、あ…あう、あうう…
困ったり焦ったりすると、吾助はどもりの癖が出てしまうのでした。
雪 冷やかしならあっちに行った行った。
吾助はしょんぼりとして、小屋の前に立っていました。鼠博士が見られないのも残念でしたが、大事な金を落としてしまったことが悔やまれてなりません。
雪 さあさあ、今日はこれで最後だよ…
日が暮れると客足は減り、見世物小屋も店仕舞いです。見物料を集めている娘が最後の呼び込みをしながら、ふと通りを見ると、先刻の男が佇んでいるのが目に入りました。吾助です。帰るに帰れず、ずっと立っていたのです。娘は客の切れ目につっと出てきて、吾助に近付きます。吾助は涙を拭って真っ黒になった顔をしています。
雪 ねえ、あんた見たいの?鼠博士
吾助は頷きますが、帯の中に手を入れて、首を横に振り尻ごみします
雪 お足、ないの?
吾助はうなだれます。
娘は吾助の顔をじっと見ていましたが、懐から銭を出すと、箱に投げ込み、入口を指差します。
吾助 でも…でも…
娘は吾助を中に押し込みました。
雪 いいんだよ、もう始まってるからさ、早くご覧よ。
薄暗い小屋の中では、女のきれいな声が響き、しばらくすると、客がどよめきます。
初音 田子の浦に〜うち出でて見れば白妙の〜
髪を割唐子にして、支那の衣裳を着た美しい娘が壇上に立ち、手前には臙脂のビロードが敷かれた台が置かれ、その上を白い独楽鼠が走り回っています。鼠は仮名で書かれた札を一枚くわえて持ち上げています。
娘が札を詠み、客に見せます。
初音 富士の高嶺に雪は降りつつ、富士の高嶺に雪は降りつつ〜
客は歓声を上げています。
吾助も後ろの方から前の客の頭をよけながら台の上にいる鼠の様子を眺めました。
鼠が台の上の取り札を全て取り終わると、娘は頭を下げ、客は拍手をしてぞろぞろと帰っていきます。
吾助は帰ることも忘れてぼんやりと鼠を見ていました。鼠は支那娘の手の上で毛繕いをしています。
初音 もう仕舞いだよ。
吾助 あ…うう…
我に帰った吾助はおろおろと出口を探し、入ってきた娘とぶつかってしまいます。
雪 いたた…あら、あんた。まだいたのかい。
吾助 あ、あ…
初音 なんだい、雪ちゃんの知り合いか。
雪 そんなんじゃないんだ…お足がないのに見たそうだったからさ…
初音 あらま、じゃタダ見かい?
雪 あたしが入れましたよ。
初音 ふふ、ならいいけど。わたしは初音、この子は雪、あんた名前は?
吾助 ご、吾助…
初音 吾助さん、面白かったかい?
吾助 うん、すごい、すごい。おいら、こんなに賢い鼠、初めて見た。
初音 おほほ、そりゃそうさ。このコマはね、特別な鼠なの。
吾助 とくべつ?
初音 そうさ。和歌の札なら、ご褒美の米粒をやらなくたってちゃんと持ってくるのよ。
吾助 お、おいらだって、知ってら、ええと、ええと…つ、つくばねのみねよりおつるみなのかわこいぞつもりてふちとなりぬる…
吾助は目を閉じて、昔家でやった歌留多取りのことを思い出しながら繰り返しました。
この歌は吾助が得意としている数少ない札で、家族の誰もが吾助が取るのを待ってくれていたのでございました。
初音 陽成院ね。ずいぶんと艶かしい歌を知っているじゃあないか
吾助 ほ、他にも知ってるぞ、ええと、ええと…ひさ、ひさかたのひかりのどけきはるのひに…
娘の肩に乗って様子をうかがっていた鼠は、吾助がそこまで言うと、キーキーと鳴いて、札の入った箱の中に飛び込み、“しずこころなくはなのちるらむ”と書かれた下の句の札をくわえて来るのでした。
初音 おお、よしよし。でもね和歌だけじゃないんだよ。今算術を教えてるんだ。コマは自分で考えられるのさ。人と同じなんだよ。
吾助 おいら、算術出来ない。指より多いと分らない。
初音と雪はふっと気の毒そうな顔で吾助を見ます。ああ、やっぱりというような表情なのでございますが、吾助は特に気にもせず、鼠を見ています。
吾助 どうすれば賢くなれるの?
初音 それはねえ…
雪 姉さん…
初音 大丈夫さ、これだから…(ト頭の横で手の仕草)
初音は吾助に顔を近付けて声を潜めます。
初音 誰にも内緒だよ。
吾助 うん
初音 薬を飲んだのさ。
吾助 薬?
初音 そう、賢くなる薬を飲んだんだよ。
吾助はきょとんとしておりましたが、
吾助 その薬を飲んだら、おいらも賢くなれるかな
初音 そうだねえ…なれるかもしれないし…なれないかもしれないし…
雪 姉さん。
何やらいわくのあることらしいのですが、吾助には分りません。
吾助 その薬、高いのかい?
初音 そりゃね。南蛮渡来の薬だから…それに江戸じゃ手に入らないよ。長崎に行かないと。
吾助 長崎?長崎って、箱根の先かい?
雪 ずっと先、お伊勢さんよりも、京よりも、ずっとずっと西だよ。
吾助 そうか…そんなに遠くに行かないと売ってくれないのか…
吾助はしょんぼりと肩を落として小屋を後にします。
吾助 薬を飲めば…おいらも賢くなれると思ったんだけどなあ…
雪 吾助!
両国橋をとぼとぼと歩いていると、雪が駆けてきました。
吾助 ええと、あんたはさっきの…
雪 雪よ。雪でいい。
吾助 雪さん…
雪 あんた、しきりとコマの賢くなったわけを聞いてたけど、どうしてそんなに賢くなりたいの?
吾助 おいら、読み書きや算盤が出来るようになりたいんだ。
雪 どうして?
吾助 読み書きが出来れば、読売や絵の無い難しい本が読めるようになるだろ?自分の名前だって漢字で書けるんだ。それに算盤が出来れば、親方の作った桶を売りに行ける。
雪 親方?
吾助 おいらが世話になってる、桶屋の八五郎さんだよ。親方は、腕はいいが、足を悪くしちまって、遠くには行けねえんだ。だからおいらが桶を売り歩ければ、もっと稼ぎが良くなるんだよ。
雪 そう…
吾助 親方はそんな心配しなくていい、得意先の仕事だけで手一杯なんだって言うんだけど、おいらが桶を一緒に作れるようになったら、もっと親方が楽できるだろ。
吾助は常日頃思っていることを、たどたどしくではありますが、雪に懸命に説明したのです。
雪 …姉さんの言ったこと、あんた信じちゃ駄目よ。
吾助 ええ?
雪 姉さんはあんたが馬鹿だから、からかったのよ。
吾助 からかった?
雪 そう、飲めば頭が良くなる薬なんてないの。コマはね…(ト辺りを見回す)鍼術で賢くなったの。
吾助 しんじゅつ?
雪 長―い鍼を頭の奥に刺したの。
吾助は雪の言葉に首を傾げます。言っていることの意味があまり分からなかったのです。
吾助 じゃあ、おいらも頭にその鍼を刺せば賢くなれるのかい?
雪 コマは幸いうまくいって賢くなった。でもちょっとでも鍼の打ち場所を間違えれば、死んじまうかも知れないのよ。
吾助 でも賢くなれるんだろ?
雪 馬鹿っ!死んじまうかもしれないって言ったじゃないか。
吾助 おいら、死ぬのは嫌だ…
雪 あたりまえさ。それに人ではまだ試したことがないんだ。賢くなれるとも限らないんだよ。
吾助 そうか…
雪 いいかい、このことは誰にも言っちゃいけないよ。
吾助 う、うん…
雪 コマの見世物が見たくなったら、またおいでよ。来月の末までやってるから、いつでも入れたげる。
吾助 あ、ありがとう…