独楽鼠回向の花束 第2話
原作:ダニエル・キィス『アルジャーノンに花束を』
翻案:蒼馬要
とっぷりと日が暮れて、家に帰ると親方の八五郎が晩飯の支度をしております。
吾助 ただいま…
八五郎 おう、遅かったな。見世物はどうだったい?
吾助 あ、あの…
八五郎 まあ、飯を食いながら話せや。
吾助は考え考え見世物のことを話しました。雪に口留めされたコマの賢くなった理由だけは言うまいと苦心しました。
八五郎 そうかい、世の中には不思議なこともあるんだなぁ。ネズ公が和歌を詠む見世物がありゃ、犬が都都逸うなって、猫が猫じゃ猫じゃと踊り出すなんて見世物も遅かれ早かれ見られるだろうよ。はははっ
八五郎は吾助の話に笑っておりました。
吾助 親方
八五郎 あん?
吾助 犬や猫じゃなくって、おいらが賢くなれたら、どうする?
八五郎 おまえがかい?そうさな、そうなったら、桶作りを教えてやらあ。俺が教えてやれるのは、それくらいだからな。
吾助は八五郎のこの言葉を聞いて、ああ、賢くなりたいと思うのでした。
雪 何度言ったら分かるんだい、駄目なもんは駄目だよ。
吾助 雪さん、お願いだぁ、おいらどうしても賢くなりてえんだよ。
雪 駄目ったら駄目ー!
数日後、吾助はまた親方に貰った菓子代の銭を持って両国に行きました。
高野 おや、そこで騒いでるのはお雪ちゃんじゃないか。
雪 あ、譲さま。
ここにふらりと現れた一人の青年、その名を高野譲と申しまして、これは若い頃の名。高野長英と申せば御存知の方も多いと思われますが、仙台水沢藩の出身で、江戸で蘭方医吉田長叔に学んだ後、長崎に留学、阿蘭陀人医師のシーボルトが開いた鳴滝塾に学んだ蘭学者でございます。
高野 半年振りだねえ。
雪 いつ江戸に?京の塾は?
高野 色々あって先月こちらに来たんだ。今は日本橋堀留町の神崎屋さんの所に寄せていただいているよ。初音さまは小屋の中かい?
雪 はい
高野 じゃ一寸、お邪魔するよ。(ト懐から小銭を掴んで雪に渡す)
吾助 あの人は?
雪 高野譲さま、長崎の阿蘭陀商館でお医者さまをなさっていたシーボルト先生の一番弟子なのよ…
そこまで言いかけて、雪はハッといたします。
雪 譲さまなら…吾助、お前を賢くしてくださるかも知れない…
吾助 ええ?
雪 だって、コマを賢くしたの、譲さまなんだもの。
その日、早速雪が高野に吾助のことを話しますと、高野はしばらく考え込んでおりました。
高野 あの施術は私が四年前、鳴滝塾にいる頃、シーボルト先生に医術の実習の一つとして教わったものです。身体の動きは脳が司っている。脳のどの部分がその指示を出すのかを調べていました。鍼によって脳のあらゆる部分を刺激している内に、額の辺りに身体ではなく、感情や思考を司る部分を見つけたのです。
雪 難しいことはわかんないけど、コマはそこに鍼を刺したんでしょ?
高野 そうです。さらにその部分を活発にするための薬を注ぐことで、より知能が増し、賢くなった。
雪 それで、賢くなれるのは鼠だけなの?譲さん
高野 うーん、私も鼠の他には犬や猫などで試みたのだが、結果はあまり思わしくなかったんですよ。
吾助 その犬はやっぱり都都逸を唸れなかったんですか?
高野 え?あはは。いや、施術をする前と後、変わりが無かったと言えばいいかな。犬は犬、猫は猫、賢さが増すことはなかった。だからコマは特別なんだ。
吾助 おいら、賢くなりたいんです。先生、おいらを賢くしてください。
高野 私はまだ人にこの施術をしたことが無い。それに賢くなるかも分からないんですよ。
吾助 それでもいい。おいら、もし賢くなれたら、かならずお礼をしますから…
高野 (ト吾助の手を取り)吾助さん、あなたの申し出は、医術の進歩のためには大変有難いことです。しかし、あなたのご家族はどう言うでしょう?頭に鍼を刺すんです。
吾助 おいら、おとっつぁんもおっかさんも、弟もいたけど、今一緒に暮らしてるのは、親方だけです。親方はおいらの親代わりで、もしおいらが賢くなったら、桶の作り方を教えてくれるって言います。だからおいら賢くなりたいんです。
雪 わたしも危ないことだって何度も止めたんだけど、聞きゃしないんですよ。
高野 では、その親方に会って、許しを貰いましょう。
吾助 はいっ!
八五郎は吾助が連れてきた高野の話を聞き、説得されたのか首を縦に振りました。
八五郎 灸や鍼みたいなもんなら、俺もこの足に打つことがあるが、あれと似たようなもんなのかい?
高野 はい、私の学んだ蘭学の医術は痛みを感じないように出来ますから、吾助さんが眠っている間に施術は終わります。
八五郎 俺もあいつが不憫でならねえんだ。頭が弱いばっかりに家族に見放されて、俺のところに来た。俺も元気な内は面倒を見てやるつもりだが、一人で生きていけるために、手に職を付けさせてやりてぇ。先生よ、吾助はその鍼を打てば、少しはましになるんだろうね。
高野 吾助さんの努力にもよりますが、随分と熱心です。きっと賢くなれるでしょう。
間も無くして、吾助は高野が開業した糀町貝坂の医院で施術を行ないます。
高野 吾助さん、ゆっくり一から勘定していってください。
吾助 おいら、十までしか数えられねえ…
高野 大丈夫、その間に眠ってしまいます。目が覚めたら、もう終わっていますよ。
吾助 ひい…ふう…みい…よう…いつ…
雪 譲さま、吾助は?
高野 うまくいきましたよ。そろそろ目が覚めると思いますが…
吾助 …先生…先生…
雪 吾助…
高野 ここに居ますよ、お雪ちゃんもいますよ。
吾助 夜なのかい?何だか目の前が真っ暗だぁ…
高野 頭に包帯を巻いているんですよ。鍼を打った傷が塞がったら外しますから、二三日はこのままでいてください。
吾助 でも、おいら、仕事が…
高野 親方には暇をいただいています。ゆっくり養生してください…
吾助 先生…おいら、賢くなったんですか?
高野 これからです。これから賢くなるんですよ。
包帯が取れてから数日の間、吾助は高野が町医の傍ら開いている蘭学塾、大観堂で毎日読み書きの練習をいたしました。
また、夜になると見世物の終わった初音と雪がコマを連れてやってまいります。初音と高野は、いい仲でして、二人して待合茶屋へと行ってしまうと、雪が百人一首の札を詠み、吾助とコマが下の句取りを競うのです。
雪 あひ見ての後の心にくらぶれば〜
コマは小屋の中と同様に素早く下の句をくわえ、雪に持って駆け寄ります。吾助はおろおろするばかりです。
雪 吾助、あんた、ちっとも取れないじゃないか。
吾助 (ト情けなさそうにうなだれて)うう…おいら、ほんとうに賢くなれるのかなあ…
雪 譲さまもすぐには無理だっておっしゃったでしょ、昼間の学問ははかどってるのかい?
吾助 毎日、かるたの札の字を書いてる…
雪 この帳面かい…これ…あんたが書いたの?