独楽鼠回向の花束 第3話

原作:ダニエル・キィス『アルジャーノンに花束を』

翻案:蒼馬要


 雪は帳面を見て驚きました。吾助の書く文字が日を追う毎にうまくなっているのです。

吾助 うん…でも、こんなものいくら書いたって、コマに勝てるわけないんだ…

雪 そんなことない、そんなことないよ、ものは試しだ、コマはもうおしまい、籠にお入り。吾助、一人でやって御覧よ。この札を全部見て、ようく覚えるんだ。あたしがまた上の句を詠むから、取って御覧よ。

 雪が座敷に下の句の札を並べると、吾助は懸命に覚えています。

雪 いいかい、始めるよ。春過ぎて夏来にけらし白妙の〜

吾助 はいっ、ころもほすてうあまのかくやま…

雪 次、吹くからに秋の草木のしをるれば〜

吾助 はいっ、むへやまかせをあらしといふらむ…

雪 いにしへの奈良の都の八重桜〜

吾助 けふここのへににほひぬるかな…

雪 すごいじゃないか、全部読めるんだね…

吾助 おいら…おいら…お雪さんが上の句を読むと、自然と…

雪 あんた、分かってたんだね、コマがすばしっこいから、先に取られてたけど…分かるようになったんだね、すごいよ、すごいよ…

吾助 おいら、賢くなったのかい?

雪 そうだよ、譲さまの施術がうまくいったんだよう!

吾助 う、うん…

雪 これならコマだって負かせるよ。

吾助 コマを、負かせる?

雪 そうさ、それに和歌だけじゃない、あんたもっと色んなものが分かるようになるよ。あたしよりも、姉さんよりも賢くなって、譲さんみたいに蘭学を学んだりも出来るんだよ。

吾助 お、おいら、そんなこと…おいらは桶職人になって…親方を助けて…

雪 何言ってるのさ、桶職人なんかいくら稼げるよ?賢くなれば、働き口は思いのままなんだよ。

吾助 …おいら、桶職人になりたいんだよ…

雪 (言い過ぎたことに気付いて)…そうだったね…あんたは、桶職人になりたいんだって、前から言ってたっけね…

 吾助は日一日と物覚えが良くなり、漢字の読み書きも出来るようになりました。算盤も要領を覚えると、そらで計算が出来るようになりました。

吾助 先生、八五郎さんの所へはいつ帰らせてもらえるんですか?

 高野は躊躇致します。近頃吾助は教えるものを何でもこなしていくので、試しに自分が写した蘭学の文書と蘭語辞書を与えて訳させたところ、一時程で全て訳し、写し間違いも直してしまうのです。高野も吾助がこれほど賢くなるとは思っておりませんでしたから、むざむざ元の貧乏長屋に返すのが惜しくなっていたのです。

高野 そうですね、そろそろ一度お戻りになって、八五郎さんに今の様子を見てもらいましょう。

吾助 一度…今の様子?

高野 そうです。あなたは変わりました。日本語の読み書きもおぼつかなかったあなたが、私の施術によって阿蘭陀語も操れるようになった。独逸語も仏蘭西語も英吉利語も覚えられる筈です。私はあなたがどれだけ賢くなるか、試してみたいんですよ。

吾助 先生、確かに先生の施術がわたしを賢くしたのかも知れません。しかし、わたしは親方を助けるために賢くなりたいと思ったのです。(ト立ち上がる体)

高野 どこへ行くんです?

吾助 帰ります。いつまでもわたしがいないと、親方が困ります。(頭を下げて)お世話になりました。お礼はまたいずれ、改めて…

高野 吾助さん!

 吾助は長屋へと戻ってまいります。以前は随分と遠い道のりに感じていたのが、迷うことも無くすぐに着いてしまうことに、吾助自身、何とも言いようの無い戸惑いを感じておりました。

八五郎 吾助、おお、元気になったんだなぁ

吾助 親方…随分ご無沙汰で…

八五郎 なんでぇなんでぇ、他人行儀だなぁ、お前らしくもねえ。それとももうすっかり賢くなっちまって、俺みたいなのたぁ、今までみたいな口をきくこともできねえってか?はははっ

吾助 そんな…お、おいら、親方の仕事を覚えようと思って…

八五郎 ああ、嬉しいねぇ。とにかくはいんな。

 八五郎は吾助に桶作りを教え始めました。吾助は程無くして一人で桶を作れるようになります。

吾助 親方、頼まれていた桶が出来上がったので届けに行って参ります。

八五郎 気を付けて行ってこいよ。

吾助 はい

 吾助が出ていくと、八五郎は一人呟くのです。

八五郎 吾助は本当に人が変わっちまったみてぇだ。(ト桶を一つ持つ体で)どうだい、俺の作る桶に遜色ねえやな。

高野 ごめん

八五郎 これは先生。吾助はただ今出掛けておりますが。

高野 そうですか、では済まないが、親方言付けを頼みます。

 両国広小路の近くを通ると、吾助はふと見世物小屋へと足が向きました。雪や初音、コマとも会わずしばらく経っていました。幟旗が見えてくると、懐かしさに気がせきます。

雪 吾助!

吾助 お雪さん…

雪 譲さまのとこを飛び出したって聞いて、心配したんだよ。

吾助 親方のところに戻ったんですよ。

雪 …ならいいんだけど、(しげしげと吾助を見て)吾助、何だか変わったね。

吾助 変わった?

雪 悪いこっちゃないよ、立派になったっていうか…いいことだよ。コマ、見て行くかい。今日は算術をやるんだよ。

吾助 いえ、配達の途中だから、また今度。

吾助 ただ今戻りました。

八五郎 おう吾助、さっき高野様がおいでになったよ。

吾助 先生が?

八五郎 何か大事な話があるとかで、お前にすぐ来て欲しいんだとさ。俺は難しいことは分からねえが、ご恩のあるお方だ、もう仕事はいいから、これからすぐに行って来い。

吾助 はい…


>>第4話につづく