独楽鼠回向の花束 第4話

原作:ダニエル・キィス『アルジャーノンに花束を』

翻案:蒼馬要


吾助 ごめんください。

高野 ああ、待ってましたよ。

吾助 お礼のことですが、まだ仕事を覚えたばかりなので、もうしばらく待ってください。

高野 お礼って吾助さん、金子のことを言ってるのかい?

吾助 はい

高野 あなたから金を貰おうとは思っていません。それよりも、吾助さん、あなた自身が必要なんだ。

 高野は吾助を部屋に通して座らせると、身の上を語ります。

高野 私は仙台藩水沢留守家家臣後藤家の三男で、母方の伯父高野玄斎の養子となりました。高野家は代々医者の家で、わたしは江戸と長崎に留学して蘭学を学びました。長崎にいる頃、養父が亡くなりました。高野の家督を継ぐため帰郷するようにとの連絡がありましたが、わたしはまだ修行中の身、養父もわたしが一門の蘭医学者となることを望んでいましたから、長崎で勉学を続けました。

吾助 では、いずれ仙台に帰るのですか?

高野 いいえ、わたしは蘭学に人生の全てを捧げようと誓ったのです。そのためにはこの江戸で勉強を続けなくてはいけない。

吾助 何故そこまでして?

高野 私は長崎で海外の情勢を見聞してきました。西欧諸国は今、日本の鎖国を解き、交易を始めようとしている。

吾助 鎖国?交易?

高野 吾助さんにはまだそういったことは教えていませんでしたね。この日本国はおよそ二百年前から、耶蘇教禁止を名目に海外との通商や交易を禁止し、中国と阿蘭陀のみ、長崎の出島というところで細々と貿易を行なってきたのです。私は四年前まで出島の阿蘭陀商館医師シーボルト先生が開いていた鳴滝塾で洋学を学んでいました。医学、語学の他、西欧の文化や暮らし、風俗といったものを教えてくださったのです。そこで感じたのが、日本は西欧に比べて、確実に後れを取っているということでした。鎖国という囲い中で惰眠を貪っている。このままの日本ではいけないのです。

吾助 わたしはそんなこと…

高野 いいえ、あなたも知っておかなければいけない。いずれ日本は開国を迫られる。その時に備えて、国の長である幕府は今のうちから海外へと目を向け、諸外国と肩を並べて行けるようにならなくてはいけない。その遅れを取り戻せるのは、国外の現状を知る我々なんです。

 吾助は高野の自慢げな態度があまり好きではありませんでしたが、熱く語る高野の様子には不思議な魅力を感じていました。

高野 シーボルト先生は日本国の歴史や言語、文化や風俗、そして動植物の研究をなさっていた。わたしたち塾生は勉強の傍ら、それらの資料を集め、シーボルト先生に差し上げたのだ。ところが先生が帰国する際、荷物の中から日本国の地図『大日本沿海輿地全図』と『蝦夷全図』が出てきた。地図を国外に持ち出すのは禁止されている。わたしたちもそのことは知っていたが、幕府天文方の高橋景保様が、先生の持っていた『世界周航図』欲しさに交換したということらしい。当事者の高橋様は捕えられ獄死。長崎にいる塾生仲間や事件に関わった幕吏までが捕えられた。鳴滝塾の学問書や資料も全て没収されてしまった。シーボルト先生も永久国外追放の処分を受けて日本を去られました。わたしはたまたま旅行中で長崎を離れていたので捕縛の追っ手から逃れることが出来た。ハルマと僅かな医学書だけを持って、京に向かいました。京には参府の折に利用する阿蘭陀宿があってね、蘭学を学ぶ者も多い。同じ志を持つ者を募るべく塾を開きました。初音さんとお雪ちゃんにはその頃出会ったのです。

吾助 コマも、その時に施術をしたんですか?

高野 そうです。町医も塾もはかばかしくなかったが、コマの施術だけは成功した。先日、三河田原藩の家老渡辺崋山様がこちらにお越しになった際、あなたのことを話すと、是非一度会ってみたいとおっしゃる。渡辺様は蘭学を通じて幕府内や諸藩の開明な方々との親交が深い。吾助さん、これからすぐ藩の江戸屋敷へ行くから、この着物に着替えておくれ。

吾助 先生、あなたには恩があります。ですが、親方への恩も捨てたくない。先生が仕官出来るために、わたしも協力はいたしますが、その後は必ず、帰してください。

高野 ああ、分かったよ。

 高野は吾助を連れて、田原藩江戸屋敷に行き、家老渡辺崋山に吾助を引き合わせます。

高野 本日は御執務多忙の折…

渡辺 まあ、堅苦しい挨拶は良い、その者が例の施術で賢くなったと言う?

高野 はい

吾助 吾助でございます。

渡辺 聞くところによると、お前はハルマを全て覚えておるそうだな。

吾助 (高野を見て)はい

渡辺 我々は蘭学を通じて、藩などの隔てなく、内外の情勢を調べ、研鑚を積む会を作ろうと思っている。高野さんはシーボルト先生からドクトルの称号を与えられた秀才である。その高野さんの施術によって、得た優秀な知能を是非とも役立てて欲しい。

高野 吉田長叔先生、シーボルト先生の元でともに学んだ岸和田藩医の小関三英殿が今職を辞して江戸に出てきております。わたしとこの吾助と彼とで洋書の翻訳を致します。

渡辺 では、定期的に会合を開き、西洋事情を研究致そう。会の名は…

 渡辺崋山は半紙にさらさらと筆をしたため、二人に見せます。

高野 尚歯会…これはいい。

 尚歯とは年齢を尊ぶ会という意味で、敬老会のような集まりという皮肉な名をつけたのです。

 吾助は渡辺崋山の屋敷に泊りがけで、洋書の翻訳を続けました。本を一冊訳す毎に貰う報酬は手を付けずに机の抽斗にためておりました。

 ある日、高野が席を外している時に、小関と話す機会がございました。

小関 吾助さんは、いつまで高野と一緒にいるつもりだね?

吾助 高野さんが幕府に仕官なさるまでとの約束で手伝っております。

小関 それはおかしい、高野は仕官の意志は無いようだぞ。

吾助 どういう意味ですか?

小関 この度、幕府の天文方に欠員が出来たので、蘭学に明るい者を募っているという話を渡辺様が聞いて、私と高野を推挙する筈だったのだが、高野は辞退していた。

吾助 どうして?

小関 そもそも、天文方の欠員は先のシーボルト事件に関わった、高橋景保様が獄死なさったことによるものだ。私は数年前に鳴滝塾を出たが、高野は事件当時まで長崎にいた。用心のために辞退したのかも知れぬがな。

吾助 それなら…すぐにではないけれど、いずれは仕官をと考えているのでしょうか?

小関 吾助さん、高野の訳している本を読んだことはあるかね?

吾助 いえ、自分の分担の翻訳だけで忙しくて…

小関 これだ。仏蘭西語で書かれている。吾助さんも読めるだろう。

吾助 レボラシオン…

小関 この言葉、高野は五経の一つ、易経にある語、革命と訳している。

吾助 革命…

小関 天命を受けた有徳者が暴君に代わって天子となるという意味だ。今から三十数年前、寛政年間のことだ。仏蘭西という国では国王を倒し、一般の民が政を治めるようになったという。高野が興味を持っているのは、西洋の政治や思想といったものなのだ。

吾助 政治や思想といったら、耶蘇教についてもですか?

小関 いや、いくらなんでもそこまでかぶれてはおらんだろうが、高野の態度は、ともすれば現在の幕府に対する政策批判となりかねん。

 翻訳の仕事は順調に進みました。月に数回開かれる尚歯会には、高野と小関が出席し、訳した文書の注釈や解説を行ないました。吾助はずっと書庫の隣りの部屋で翻訳を続けたのです。


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