独楽鼠回向の花束 第5話
原作:ダニエル・キィス『アルジャーノンに花束を』
翻案:蒼馬要
三ヶ月が経ち、吾助たちは崋山の持つ洋書の殆どを翻訳し終えました。
その晩、吾助と小関は高野の家に呼ばれ、初音や雪と一緒に夕食を取りました。雪が籠の蓋を開けると、コマは少し顔を出しただけで、すぐ引っ込んでしまいます。
初音 最近調子が悪いんですよ。百人一首は出来るんですけど、算術がうまくいかなくて、しくじると腹を立てて、噛みついたりするんですよ。眠っていても時々急に暴れたりするし…
高野 どれ、見せて御覧。こりゃあ自分で毛を毟ったり傷付けたりもしているようだね。
雪 譲さま、コマはまた元気になれるの?
高野 とにかく傷の手当てをしよう。お雪ちゃん、診療所から薬箱を取ってきておくれ。
雪 はーい
高野 (雪がいなくなったのを見て)鼠は寿命が短いからな…コマも施術をして間も無く一年になる。随分長生きした方だよ。
初音 高野さま、雪の前ではおっしゃらないでくださいな。あの子、悲しみますから。
高野 んん…
初音 それより、コマが芸を出来なくなると、わたしも雪ちゃんも困りますわ。
高野 なに、二人の世話くらい私が見てやろう。
初音 あら、嬉しい。
高野と初音の遣り取りを聞いていると、吾助は無性に胸がつかえ、厠に行こうと席を立ちました。
廊下で座り込んでいると、薬箱を持った雪が戻ってまいりました。
雪 吾助、どうしたの?気分が悪いの?
吾助 少し酒を飲みすぎた。
雪 お水を持ってきてあげるから、待ってて。
しばらくすると、雪は湯のみ茶碗に水を入れて持って来てくれました。
吾助 ありがとう、楽になったよ。しばらく夜風に当たったら戻るから。
雪 うん、具合が悪くなっても、譲さまと小関様がいらっしゃるから、大丈夫よ、ふふふ。
コマは間も無く死ぬ。雪はコマが死んだら泣くのだろうな。
吾助はまだ施術をする前のことを思い出しておりました。賢くなる施術は危険で、誤まれば死ぬかもしれないのだと雪に脅された時のことです。その時の死に対する気持ちを正しく思い起こすことは難しかったものの、現在はより鮮明に死というものを恐ろしいと感じておりました。
夜遅く、吾助は寝つけず一人座敷に戻ってきました。部屋の隅にコマの籠が置かれています。人の足音に目を覚ましたのか、コマが籠の中でキーキーと鳴き声を上げました。籠を何気なく持ち上げ、障子を開けて月光に照らすと、カサカサと動く影が見えます。
吾助 コマ…お前も、思えば哀れな奴だなぁ…先生に施術をされ、賢くなった後は見世物に出されて、毎日毎日、和歌に算術。そして寿命が来たらお払い箱ということか…
そう言いながら、吾助はまるで自分の行く末を見ているかのような気持ちになりました。
吾助 コマ…お前は鼠らしい生き方もしないで死んでしまうのか?
籠の蓋を開けると、コマは元気に飛び出し、吾助の腕を駆け上がって、肩に乗りました。
吾助はコマをそっと手で掴んで懐に入れると高野の家を出たのです。
吾助は夜明けを待って、親方の所に向かいました。高野がどんな理由を親方に言ったのかは分かりませんでしたが、三月も留守にしたことを思うと、何事も無く帰るのは気が引けました。
長屋の入口辺りでウロウロしていますと、蜆売りが怪訝そうな顔をして、吾助に一瞥をくれて通り過ぎていきます。
三太 おーい、蜆おくれ!わあっ
長屋から笊を持って走り出てきた小僧とぶつかってしまいます。
三太 イタタタ…何してんだよぅ
吾助 あ、いや…すまない…
奥から八五郎が顔を出します。
八五郎 どうした、三太、蜆は買えたのかい?おい、吾助じゃねぇか
三太 ああ、親方のお知り合いでしたか。へい、ただ今(ト駆け出す)
吾助 親方、随分長い間、無沙汰で…
三太 買ってまいりやした。
八五郎 おう、鍋に入れて火に掛けときな。あ、あれはな、新しい弟子を…な…お前はもう、学問所に勤めるからと先生がおっしゃっていたから…俺も一人で仕事をするのには何かと不便だからよぅ。
吾助 そうでしたか…
八五郎 吾助、飯を食って行けや。
吾助 …はい。
久しぶりに親方の作った味噌汁をすすり、吾助は涙が出そうになりました。
八五郎 学問所の仕事は大変なのかい?
吾助 朝から晩まで、ずっと机に向かっておりましたが、昨日一段落つきました。
八五郎 そうかい、そうかい。おい、三太、この吾助はな、以前ここで働いていたんだが、今では学問所で難しい南蛮の本を訳してるんだぞ。
三太 (じっと吾助を見て)へえ…
吾助 親方…
八五郎 (吾助に耳打の体)施術のことは言わねえよ。先生との約束だからよ。
吾助 …実は、親方に頼みがありまして…
八五郎 何だい
吾助 私は、父と母に会いたいんです…私は昔のことを、殆ど覚えていないんです。父と母は弟に身代を譲って、隠居の身となったということしか知らないんです。
八五郎 そうか、そんなに会いたいのか?
吾助 はい…
八五郎 …伝通院裏の小石川御掃除丁に暮らしていなさる。
吾助 ありがとうございます。(頭を下げた後、思い出して)親方…これを…
吾助は懐から金の入った包みを取り出し、八五郎の前に置きました。
八五郎 (ギロリと睨み)金か?
吾助 はい。学問所で貯めた金です。受け取ってください。
八五郎 馬鹿やろう、俺は職人だ。施しなんざまっぴらご免だよ。
吾助 親方…
八五郎 お前が学問所に行っちまって、しばらく経ってから高野様がおいでになってよ、今みてぇに金を俺の前に置きやがった。そん時だって言ってやったんだ。俺はお前を売ったんじゃねえってな。吾助、これはお前が稼いだ金だ。お前のもんなんだ。
吾助 ですが…私は親方に何のご恩返しも出来ないから…せめて…
八五郎 それが余計なお世話だってんだ。もう出てっとくれ。仕事があるからなっ!
金を突き返され、吾助は長屋を追い出されてしまいます。
小石川に向かう途中、懐で眠っていたコマが目を覚まします。吾助は饅頭屋で蒸かしたての利休饅頭を一つ買うと、皮を小さくちぎってコマに与えました。明るい所で見ると、随分とみすぼらしくなったように思います。
吾助 もう少し付き合ってくれよ。
小石川御掃除丁は、目付支配の掃除之者が拝領した大縄地がそのまま町名になった所ですが、殆どが町人に貸借されていたと言われています。
吾助が近所の人に道を聞きながらその家に辿りついたのは、昼近くでございました。ずらりと長屋の並ぶ一番奥がそうであろうと教えられ、吾助は緊張して入っていきました。おとっつぁんとおっかさんに会ったら、何て言おう、こんなに立派になったんだよ。読み書きも算盤もできる、学問所で洋学を学んでいるのだと言ったら、さぞ驚くであろう。何か手土産でも持って来れば良かっただろうか、心臓が早鐘を打ち、足も小刻みに震えるのです。
吾助は精一杯の声で呼びました。
吾助 ごめんください