独楽鼠回向の花束 第6話

原作:ダニエル・キィス『アルジャーノンに花束を』

翻案:蒼馬要


茂平 どなたでございますか?

 戸を開けて出てきたのは、吾助と同じ位の年恰好の男でした。吾助とその男はしばらく立ち尽くしていましたが、突然その男が叫びました。

茂平 兄さん、兄さんだね。私です、弟の茂平ですよ、吾助兄さん。

吾助 茂平…ああ、茂平…どうして、ここに?

茂平 それはこっちが聞きたいくらいですよ、兄さん。

 茂平の話を聞いて、吾助は愕然としました。先月、父親が急に亡くなり、葬儀が済んで間も無いこの頃、母親が俄かに呆け始めたというのです。そのような状態で隠居住まいさせておくのも無用心なので、茂平は母を家に連れて帰ろうと考え、何度も通って説得しているのだといいます。

茂平 でも、おっかさんは言うことを聞いてくれないんだ。もうかなり記憶が曖昧で、私のことを兄さんと間違えて、手習いはどうしたとか子供扱いしたりする。これはすぐにも連れ帰らないといけないんですが…

吾助 私が、話してみよう。

茂平 兄さんが?そういえば、兄さん、先日おとっつぁんの葬儀があると伝えに、八五郎親方の所に行ったら、学問所で働いていると親方が言っていましたが…

吾助 詳しいことは言えないのだが、とある武家屋敷の御家老の元で蘭学の翻訳をしていたんだ。

茂平 そうでしたか…おっかさんは、いつか兄さんが賢くなると口癖のようにおっしゃっていましたが…それを聞けばきっと喜ぶでしょう。おっかさん、おっかさん、吾助兄さんが来ましたよ。

母 吾助?吾助が来たのかい?

吾助 おっかさん、お久しぶりです。

母 ほほほ、変なことを言って、昨日も、おとといも、その前の日も、お前は毎日来てくれているじゃないか。

吾助 …そうでしたね。おっかさん、わたしと、茂平と、一緒に家に帰りましょう。

母 それは出来ないよ。わたしはお前を捨てたんだもの。お前が賢くならないのは、わたしの育て方が悪かったからだ。酷い母親だよねえ…

吾助 おっかさん、そんなことは無いよ。私は賢くなった。おっかさんがずっと望んでいた、賢い息子になったんです。本も読めるし、算盤も出来る。

母 そうかい…そうかい…吾助、顔を良く見せとくれ。

 吾助がよろけた母の肩を抱えようとすると、懐からコマが飛び出しました。

母 ぎゃあっ!

 鼠に驚いた母はそのまま気を失ってしまいました。

茂平 今のうちに、駕篭で家まで連れて行きましょう。

 吾助はコマを捕まえて懐に戻し、茂平と一緒に母親を家まで送りました。

 床についた母親の手を握りながら呟きました。

吾助 おっかさん、もう心配しないでください。私は大丈夫ですから…

茂平 兄さん。

吾助 茂平、お前にばかり、親や家のことを任せっきりで、済まないと思っています。

茂平 そんなこと…私だって、子供の頃は、兄さんがしょっちゅう馬鹿なことをするから、近所の子供たちにいじめられて、兄さんなんかいなくなってしまえばいいと思ったこともある。兄さんはおとっつぁんやおっかさんを困らせているのに、ちっとも怒られない。それに比べて、私は人一倍努力して、勉強も、家業も覚えたのに、それが当然であるかのように思われていて、大層恨みに思ったこともある。

吾助 ちっとも知らなかった…許しておくれ。

茂平 許してほしいのは、私の方です。兄さんがいなくなって、家は何だか寂しくなった。清々したというのも真だが、兄さんにはずっと家にいてもらいたかった。おとっつぁんも、おっかさんも、そう思っていた筈です。

 茂平の涙ながらに話す様子を見て、吾助も涙が溢れてまいりました。

茂平 商売は、私と女房と、使用人たちとで滞りなくやっています。今の仕事が忙しいかも知れませんが、おっかさんのために、吾助兄さん、今後もちょくちょく様子を見に来てくれませんか。

吾助 分かった、分かったよ。

 吾助はその日、懐かしい我が家に泊まり、茂平と幼い頃の話をして過ごしました。

 翌日、吾助は高野の元に戻る気持ちになれず、町を歩き回りました。小間物屋で籠目の小箱を買い、中に綿を敷き、コマの寝床を作ってやりました。コマは暴れもせず、丸くなって眠り、時々餌の米粒や豆を与えると、カリカリと齧っています。

 木賃宿で寝泊りし、貸し本や読売を読み漁る日が続きました。

 コマの具合が悪くなったのは、十日ばかり経った頃です。朝、新しい水を飲ませようと蓋を開けると、ぐったりと横になっていたのです。持ち上げると、身体はいつもより熱を帯びており、はぁはぁと苦しそうにしています。こよりで水を飲ませましたが、症状は一向に良くなりませんでした。吾助はコマを両手で持ち、ずっとその様子を見ていましたが、昼前にとうとう激しく痙攣すると、やがて息をしなくなりました。その瞬間、軽い身体がより軽く感じられ、次第に冷たくなっていくのを手のひらに感じながら、吾助はどうすることも出来ず、声を殺して泣きました。

 さらに一月が過ぎ、二月が過ぎて、高野は吾助を見つけ出しました。不精髭と伸び放題の月代、着物もボロボロになって、みすぼらしい姿の吾助が、貸し本屋から出て来たのを追って、宿を突き止めたのでした。

高野 吾助さん。探しましたよ。

吾助 先生…

高野 飛び出して、何がしたかったのです?

吾助 …自分らしい生き方がしたかった…コマにも、好きなことをさせてやりたくて…

高野 コマはどうしたんです。

吾助 …死にました。

高野 そうですか。あの晩からもう具合が悪かったですからね。で、どうしますか?

吾助 どうって…

高野 私のところに戻って来れば、またあなたに頼みたい仕事があります。どうしますか?

 吾助は高野の家に戻ってまいりました。吾助が居ない間に、小関は天文方への出仕が決まっていました。初音と雪はしばらく高野の世話になっていたそうですが、初音は上方の歌舞伎役者と駆け落ちし、姿をくらましてしまったということでした。雪は高野の手伝いをしておりました。

雪 そう、コマ、死んだの…。ねえ、吾助はどうしてコマと一緒に逃げたの?

吾助 …うまくは言えないんだけど…コマが哀れに思ったんだ。コマは鼠として生まれて、幸せと思えるようなことがあったのだろうかと思った。

雪 吾助、コマが幸せだったかどうかなんて、わたしたちが決められるものじゃないよ。わたしはコマと一緒に遊んで、おいしいものを沢山やった…コマの芸で、あたしと姉さんは随分稼がせてもらったけど、コマが進んでやってたことだもの。コマは精一杯生きてた。それが鼠として不幸だったとは言えないよ。吾助は賢くなれたことを後悔してる?

 吾助は賢くならなければ、ちゃんと話をすることも出来なかった親方や母、弟のことを思いました。

吾助 ううん、賢くなって色んなことが分かるのは素晴らしいよ。

 高野の元での暮らしが一年ほど続きました。昼は町医の仕事がある高野の代理で蘭学塾の教授を務め、夜は翻訳を行ないます。高野は吾助を時々渡辺崋山の所に連れていき、書物や外国の地図の他、洋画や衣服など、海外の珍しいものを見せてくれたりしました。

高野 渡辺様は家老職を継ぐ以前から、藩の海岸掛という職に就いておられた。領地の海岸に流れついた難破船を救済して、真水や食料を提供する。外国船の場合は日本が鎖国であることを説明して、二度と近付かないよう警告する。最近、亜米利加の捕鯨船が漂着して、補給を行なったそうだ。その際に英吉利語の書物を何冊か贈られたそうだ。

吾助 亜米利加は英吉利の言葉を話すのですか?

渡辺 元は英吉利の植民地であったからだ。安永五年に英吉利の支配から独立し国家となったのだよ。

吾助 安永五年と言いますと、寛政元年の仏蘭西革命よりも早いのですね。

渡辺 そうだ。(本を取って)これはジェファソンという者のしたためた、ザデクラレシオンオブインデペンデンスという宣言文です。これを高野さんと一緒に訳してもらいたい。

 その日から、吾助と高野は、独立宣言の翻訳を始めました。

 数日後、連日の徹夜で訳し終えた独立宣言に、高野は目を通しています。

高野 亜米利加という国は実に革新的だ。仏蘭西は革命によって王政から国民主権の共和制へと替わったが、長くは続かず、ナポレオンによって帝政へと移ってしまう。しかし亜米利加は独立以降ずっと民衆に主権があり、民主主義の理念を実践している国家なのだ。私はこれからすぐこれを持ってお屋敷に行ってくるよ。吾助さんもくるかい?

吾助 いえ、私は少し休ませてください。

 吾助は最近、目を酷使すると、頭痛に悩まされていました。始めは微かなものでしたので気にせずにいたのですが、次第に痛みが強まってきたのです。横になって目を閉じ、顔に手のひらを乗せると、瞼や額が熱を帯びていることに気付きます。手拭を濡らし、顔に当てていると、雪がやってきました。

雪 眠い?疲れたの?床を延べようか?

吾助 いや、眠くはないんだ。しばらくこうしていれば、楽になるから。

雪 そう…

吾助 …お雪さんは、優しいね…

雪 ば、ばかっ!具合が悪そうだったからよ。でなきゃ、吾助の面倒なんか見るもんか。

吾助 ありがとう…

雪 …あのね、あたし、譲さまに女房になってくれって言われたの…譲さま、ホントは姉さんのことが好きだったけど…居なくなっちまったから…

吾助 そう…

雪 人別帳に記すのにも、一緒に暮らしているんだから、身内の方がいいんだって。譲さまにはずっと世話になっているし…偉いお方だと思うし…でも、あたし、どうすればいいのか…

吾助 初音さんに気兼ねしているのかい?

雪 吾助…

吾助 お雪さんは先生のことを好きなんだろう?それなら、一緒になればいい。

雪 あんたは、ホントにそれでいいと思うの?

 吾助が起きあがって頷くと、雪は顔を歪ませ、そのまま部屋を出ていってしまいました。

吾助 高野さんとお雪さんが夫婦になるのか…

 そう呟くと、吾助は急に胸が締め付けられたような気がしました。


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