葛の葉〜黙阿彌異聞〜第二話
作:蒼馬要
明け方、雨戸がガタガタと軋む音で芳三郎は目を覚ました。熊はまだ寝息を立てている。起こさないように掻巻から這い出て雨戸を開けると、埃混じりの強風が吹き込んできた。すぐに障子を閉めたが砂埃で畳がざらつく。今日はおさんに部屋の掃除を頼もうと思いながら手拭を持って階下に下りていくと、台所では朝餉の支度が始まっていた。
「おはようございます」
「おや、芳さん、お早いこと」
芳三郎が井戸端で顔を洗っていると、熊が木刀と草履を抱えてこそこそと降りてきた。
「熊さん、もう起きたのかい。飯をあがってお行きよ」
「んん…」
熊はきまり悪そうに笑って首を横に振る。
「稽古があるから…」
下女のおさんはそわそわと熊の様子を見詰めている。幼い頃の熊は粂三郎という名にし負う美童であった。実母が大和屋の贔屓で名付けたのだというが、実際熊は実母の元で養育されていた十歳まで、髪を稚児髷にして少女の格好をさせられていた。当人はこの名前と身なりによって近所の悪童たちにいじめられることが嫌で嫌で堪らなかったそうだ。本宅に引き取られてから始めた道場通いもその反動らしいが、常日頃から侠気を見せることに強く憧れている。中高の顔に目元は涼しい前髪立ちの美丈夫である。一昨年八代目を襲名した成田屋に似ていると言えばいささか褒め過ぎではあるが、豊國の描いた八代目の役者絵にはそっくりである。女たちが興味を持つのも無理は無い容貌である。
「芳さん、あの猫しばらく預かってくんねえかな」
「ああ、かまわないよ。おさんに残り物をやるよう言っておくから」
「神田のおっかさんが大の猫嫌いときてる。くしゃみが止まらなくなるんだ。家ん中に鼠が出ても猫だけは近付けたがらねえ」
熊は実母を深川のおっかさん、養母を神田のおっかさんと呼び分けている。
「おっかさんの干支は子かい?」
熊は指を折って頷く。
「ああ子歳だ」
「わたしより一回り上になるかね」
「じゃあ芳さんも猫は駄目かい?」
「猫は怖くないが、そのかわりわたしは芝居が怖いよ」
芳三郎は落語の『まんじゅうこわい』に洒落て笑った。
「はは、だったら俺もかべすが怖いや。じゃ」
芝居見物の際、茶屋を通らずに小屋に入る一般客向けに、菓子や弁当、鮨などを席まで届ける商売を、扱う品物の頭を取ってかべすと言う。熊が芝居小屋に行く目的は専らこの馳走にあった。
熊は木刀を担いだ肩を縮こまらせて、強風の中を小走りで駆けて行った。
部屋に戻った芳三郎は文机の前に座り、朝飯が出来るまでの間、三題噺を考えた。掻巻の上でブチ猫が丸くなって寝ている。よく見ると、足先は白い毛で白足袋を履いているようである。
「ブチ猫…鼠…天然理心流…」
天然理心流の道場に性質の悪い大鼠が棲みつき、稽古用の木刀を齧って使い物に出来なくしてしまう。困っているところに一匹のブチ猫が入門を申し込みに来る。武家でなくとも剣術が学べるとはいえ人に限ったことと、最初は門前払いをされるが、ブチ猫は腕試しにと問題の大鼠を退治して見せる。その功が評価され、特別に入門を許されるが野良猫で名前が無い。どんな名前がいいかと問われたブチ猫はしばらく考えて、タマ(多摩)がようごさいますとのオチ。
「朝飯前にしては良く出来た。外題は差し詰め…白足袋を履いた猫…」
好文堂に行き帳面の整理を済ませ、いつものように荷を背負い、丁稚の小僧を連れて今日は深川の出店まで行った。いつも首に巻いている紅絹の襟巻きですっぽりと頭を被い、埃が入らぬよう目を細めて俯き加減で歩く。
深川では今、為永春水の『春色梅児誉美』が一番人気である。美男子丹次郎と深川芸者米八との恋模様が描かれた『梅児誉美』は地元深川だけでなく各店でも好評で、いくら仕入れても貸りる客が後を絶たない。
店の奥で尾張町に持って帰る本をまとめていると、俄かに外が騒がしくなった。店の中にいた客も何事かと外に出て行く。
「芳さん、火事だぁ」
外に様子を見に行った丁稚が駆け込んでくる。
「えっ?」
芳三郎も慌てて外に飛び出した。北西の空が煙り、けたたましい半鐘の音が風に乗って聞こえてくる。
「この方角は、湯島か神田の辺りだな…」
「風向きだとこっちもあぶねえかも知れねえ」
天保五年二月七日の大火である。未の刻に外神田佐久間町二丁目より出火し、おりからの北西の強風に煽られ、神田、日本橋、八丁堀、両国橋など一帯を焼き、三千人以上の死者を出したといわれている。
火は翌日未明に一旦鎮まったものの、連日吹き続く強風によって繰り返し各地で火勢を増し、十三日に雨が降るまで何度となく江戸の町を燃やしたと伝えられる。
日が暮れても川の向こうは所々で火の手が上がり続けていた。芳三郎は丁稚とともに出店の隅で一夜を明かした。
翌日の昼前、永代橋を渡って店に戻ると、尾張町の辺りは幸いにも焼け残っていた。屋根が総瓦であったこと、天水桶の水を掛けて逃げたことなどが幸いし、火の粉が直接燃え移らなかったのだ。店の前には大八車が並び、奥の蔵から本を運び出して積んでいた。
店の中に上がると、番頭が本の山を前にあれこれと指図をしている。
「ああ、芳さん、無事でしたか」
「はい、深川の方は大丈夫です」
「早速ですまないが、芳さんも手伝っておくれ。品川の旦那様のお屋敷に運ぶんだよ。ここの蔵は火が回ると焼けてしまう恐れがある」
蔵の中には貴重な本が多く納められている。芳三郎も他の手代や丁稚とともに本を大八車に積んで品川に運んだ。夕方には日本橋や両国の出店の者も戻ってきた。店と邸を何往復もするうちに、その日は暮れた。
邸では握り飯と根菜や蒟蒻、焼き豆腐や小豆などの入った味噌汁、御事汁にありつけた。
「芝居町の方はどうでした?」
両国の出店から戻ってきた手代に、芳三郎は最も心配していることを聞いた。
「葺屋町や堺町辺りも全部焼けましたよ。大川の向こうへ逃がれたんだが、両国橋も思案橋もあらめ橋も落ちたので、戻ってくる時は大層骨を折りました」
一昨日まで弥生狂言の支度に追われていた両座が一日で燃え落ちてしまった。がっくりと気落ちし、疲労が全身を襲った。
「木挽町の方は無事らしいね」
森田座…現在では控櫓の河原崎座が取って代わっている木挽町の芝居小屋は好文堂のある尾張町の東にあり、この時には何とか焼け残ったが、二日後の十日、外濠の数寄屋橋御門の辺から出た火によって焼け落ちてしまう。好文堂もその時類焼した。
品川から芝の親戚の家に帰ると、姉のきよが待っていた。芳三郎が火事に巻き込まれていやしないかと心配した両親に様子を見てくるよう言われたらしい。きよは芳三郎の顔を見るとホッとして、そっと涙を拭った。
「はい、芳さんの好物の切山椒、おっかさんから」
お茶と一緒に切山椒を食べながら、きよの取り止めのない話を聞いていると、熊のことを思い出した。お玉ヶ池も大伝馬町も焼けてしまった筈だ。店はしばらく休みになった。火がおさまったら様子を見に行こうと思った。
閉店していた好文堂が類焼してからさらに三日後の十三日、夕方七つ時頃から雨が降り始めた。笠を被り合羽を羽織った芳三郎は日本橋に向かった。
天保元年の暮れにも小伝馬町辺からの出火で市村座と中村座は燃えた。その時も小屋が再建されるまでに数ヶ月かかった。再建されても道具や衣装などが揃わず、そのため翌年の前半は両座とも殆ど芝居が打てなかった。
今度の火事は当時とは比べ物にならない程規模が大きい。材木の値は高騰するだろうし、まず武家屋敷の再建が優先される。芝居小屋が復活するのは半年先か一年先か…
「芳さんじゃないか。好文堂の芳さんだろう?」
振り返ると八代目を連れた海老蔵が蛇の目をさして立っていた。
「七代目…」二の句が継げなかった。
「どうです、きれいに焼けちまったじゃあないですか」
海老蔵はにこにこ笑っている。この大らかさに幾らか救われた気がした。
「皆さんご無事で?」
「わたしもこれも殆どの者が楽屋におりましたが、形振り構わず逃げ出したんで助かった。中村座も、河原崎座の方も同じようなもんです。昨日まで家におりましたが、今日は一日ご贔屓の火事見舞いに回っているんですよ」
やや離れたところに駕篭が二挺待たせてある。
「好文堂さんは大丈夫でしたか?」
「店は一昨日の数寄屋橋御門からの出火で燃えちまいましたが、七日の火事では焼けずに残りましたので、本はその時全て品川の邸に運び入れることが出来ました」
「そうですか。お互い商売道具が無事で何より。…丁度良かった、こんな時になんですがね、借りたい本がある。次回の狂言に将門ものをと考えていまして…」
小屋が灰になってしまい、まだ再建の目処も立っていないというのに。
「将門ものというと、御入り用は『将門記』ですか?」
海老蔵は芳三郎の返答を見透かしてでもいたかのように微笑んだ。
「まぁ、それは触りとして、後日譚を軸にしたい」
後日譚として有名なのは、近松の『関八州繋馬』や大南北の絶筆『金幣猿島郡』など浄瑠璃本がある。
「以前読んだことがあるんだが…京屋の…」
「ああ『善知鳥安方忠義伝』ですね」
将門の娘、如月尼が滝夜叉姫と名を改め、源家への復讐を企む弟良門を助けるというあらすじの山東京伝の筆による読本である。
「相馬の古御所で大宅太郎光圀の前に滝夜叉が傾城姿になって現れるてえ大詰めの場面。あすこを通し(狂言)の最後にもってきて、常磐津でやってやろうと思うんだ」
常磐津なら宝田寿助が書くであろう。滝夜叉は、光圀は誰が演るんだろう…芳三郎は花道のスッポンから傾城如月が奥床しくせり上がってくる様子を想像し、思わず胸がときめいた。
「では、すぐに調べましてお宅の方にお届けに上がります」
海老蔵の邸は深川の木場にある。
「なに、すぐにとは言わないよ。小屋もこの通りだ。落ちついたらで構わない」
「おとっつぁん、早くしないと今夜中に回りきれませんよ」
後ろで八代目が急かす。若いのにしっかりしている。
「ああ、分かっているよ。じゃあ、『善知鳥』、頼みましたよ」
「はい」芳三郎は頭を下げ、二人を見送った。
芝居小屋が再建されれば、また全てが元に戻る。いや、もっともっといい芝居が観られるようになるだろう。そうでなくてはならないのだ。