葛の葉〜黙阿彌異聞〜第三話
作:蒼馬要
芳三郎は大伝馬町からお玉ヶ池に向かった。
熊の家の辺りも焼け野原になっていた。邸の脇にあった大きな蔵だけが焼け残っており、その近くで誰かが立て札を立てようとしている。薄暗くなってきたから人相は分からないが、近付くと、紛れもなく熊であった。
「熊さん!」「芳さんかい…」
熊は市ヶ谷で火の手を見た。東の空が朝焼けのように赤く染まり燃え続けていたため、その日は道場で一晩を過ごし、翌朝になってようやく火がおさまったので、まず店のある大伝馬町に向かったという。店のあった場所まで来たものの、何の手掛りも掴めなかった。その足でお玉ヶ池の邸にも回ったが、こちらもすっかり変わり果てていた。
道場で寝起きし、各地に建てられた御救い小屋を回ったが、父も母も使用人たちも見つからなかった。
「この辺は出火元に近いから、逃げ遅れたのかも知れねえ…」
それでも熊は立て札を作って持って来たのだった。
―――粂三郎、無事、市ヶ谷近藤方―――
持っていた立て札を熊はいきなり地面に叩きつけた。
「うう…」
肩を震わせ泣くのを懸命に堪えている。
「熊さん、諦めちゃいけないよ」
倒れた庭の石灯籠の台座に熊を腰掛けさせ、袂から昨日姉のきよにもらった金平糖の包みを取り出して手渡し慰めた。
「はぐれてるだけかも知れないんだ。所在や無事が分かれば必ず会える。立て札は立てておかなきゃ」
熊は涙を浮かべながら金平糖を噛み締めた。
「熊さん、深川のおっかさんの所にはもう行ったのかい?」
熊は顔を上げた。やはり気が動転していたのか、実母のところに行くのを忘れていたようだ。
「別宅はお不動さんの裏手だったっけね。あの辺りは無事だよ。きっと心配してるだろうから、行ってくるがいい」
芳三郎の言葉に、熊はやっと笑顔を見せた。
「うん、俺行ってくる。…立て札は帰ってきてから立てるよ」
「戻ってきたら、家にも寄っとくれ」
熊の父親は、別宅にいて火事を免れていた。火がおさまった後、何度も店や邸の方に様子を見に来ていたのだが、熊とは行き違いになっていたのである。
本宅にいたであろう本妻のるいと、店の使用人たちは十日以上が過ぎても消息が分からず、やはり亡くなったものと思われた。芝の檀那寺で葬儀がとり行なわれることになったが、遺体が見つからない者の葬儀は後回しにされた。
間もなくして好文堂は燃え残った出店だけで商売を再開した。芳三郎もあちこちの出店や武家屋敷を回り、忙しく働いた。
三月になり、芳三郎は店に一日暇を貰い、熊を連れて飛鳥山に花見に出掛けた。
王子の飛鳥山は日本橋から岩槻街道を二里と少し、朝出発してぶらぶらと歩いても、昼までには着く道のりである。
熊は水浅葱に雨と濡燕の柄の羽織着流し、芳三郎は黒地の雲に稲妻柄の羽織着流し。いずれも深編笠を被り、京伝の読本『昔話稲妻表紙』を南北が脚色した『浮世柄比翼稲妻』鞘当の場、名古屋山三と不破伴左衛門のいでたちである。この着物は七代目が『善知鳥〜』の本の礼にと、芝居に使ったものを貸してくれたのである。着物だけではない。熊の父親が金方である。扇屋の奥座敷で遊ぶ手筈も整っている。
「着いたら腹ごなしに土器投げでもしようぜ」
素焼きの小さな皿を谷に向かって投げる土器投げは飛鳥山に来た花見客が楽しむ遊びの一つである。
森川宿の立場の茶屋で団子を三皿も平らげた山三がそう言うと、
「土器投げもいいが、この陽気は…さすがに息が上がらぁ…」
笠をちょっとあげて伴左衛門がこぼす。まるで初夏のような陽気である。あまり遠出をしない芳三郎にとってはかなりきつい。
「早く行かねえと桜が散っちまわぁ。芳さんこの尺八に掴まんなよ」
熊は刀代わりに腰に挿した尺八の端を芳三郎に握らせて、ぐいぐいと引っぱる。
別宅で暮らすようになって、あまり元気が無かったと聞いているが、気持ちも幾らか晴れやかになったのであろう。
「それにしても山三と不破がいるてぇのに、葛城太夫がいねえのは残念だなぁ」
芳三郎が呟くと、熊も肩を揺らして笑っている。
「まぁ、鞘当てが始まらなきゃ、太夫も出ては来れまいか」
二つ目の一里塚を過ぎると、目前が桜色に包まれる。
「ああ、俺も暑い」
熊も堪らず笠を脱いだ。派手な着物だけでも注目を浴びていた二人であったが、熊の顔を見ると、通行人たちは立ち止まり、振り返って見惚れる者もいる。
「あの山三、いい男ねえ…」
「ちょいと成田屋に似てないこと?」
女たちの色めき立った声が聞こえてくる。
「太夫は見当たらねえが、留女なら選び放題だぜ」
芳三郎がからかうと、熊は女たちの視線がさも迷惑であるように笠をかぶり直す。
土器投げをした後、二人は音無川沿いの小径を下って扇屋に向かった。
座敷に腰を下ろすと、お銚子が二本、猪口が二つ、先付の漬け菜の小鉢と運ばれてきた。
「熊さんはまだ酒はいけないね、茶を貰おう」
「ううん、俺も少し飲むよ」
熊は粋がって給仕の娘に注がれた酒を二、三杯勢い良くあおった。
「この頃はおとっつぁんの晩酌にも付き合うんだぜ」
すぐに頬を染めている。
花見の客が多く、隣りの座敷のどんちゃん騒ぎに辟易した二人は一時程で店を出た。折詰の玉子焼を片手に二人はまた桜を見に山に向かった。
暮れ泥む夕空の元で眺める桜にも風情があり、芳三郎はしばし浮世を忘れて見入っていた。
「二人でも出来る茶番を考えてくりゃ良かったなぁ。どうも手持ち無沙汰だった、なあ熊さん」
芳三郎が笑いながら隣りの熊の顔を覗き込むと、気分が悪そうである。やはり飲ませ過ぎてしまったようだ。
葦簾をしまい掛けていた茶店に頼んで熊を店先の床机に座らせて休ませることにした。
「あいにく釜の火を落としちまったもんで、冷めた茶しかございませんが」
熊は土瓶で出された渋茶を湯呑に注ぐとガブガブ飲んでいる。しばらく休んで酔いを覚ませば、夜までには帰れるであろう。
「おや」
店の脇の叢から狐が一匹顔を出した。何度か王子に来たことのある芳三郎も、狐を見たのは今日が初めてであった。
「熊さん、ほらあすこ、見て御覧よ」
狐は逃げもせず、じっとこちらを見ている。どうやら熊を見詰めているのだ。
「女狐かな」「よせやい」
芳三郎の言葉を否定しながら、熊の方も狐から目を離せずにいる。
狐がスッと叢に姿をくらました瞬間、熊があっと短い悲鳴を上げ、そのままかくんと頭を落とした。
「おい、どうしたい、熊さん」
気を失ったのか、力無くしなだれ掛かってくる熊を慌てて抱き止めた。揺するとすぐに目を覚ましはしたものの様子がおかしい。
街道沿いで駕篭を頼み、深川の別宅に急ぎ帰った。