葛の葉〜黙阿彌異聞〜第四話
作:蒼馬要


 熊を寝かせると、芳三郎は両親に事情を話した。しかし花見の途中で急に具合が悪くなったとしか説明しようがなく、これといって苦しむ様子もないため医者を呼ぶわけにもいかない。
 しばらくすると、熊は突然目を開き飛び起きた。
「気が付いたか?」
 熊は近寄った父親をしげしげと眺めていたが、床の間を背にきちんと座った。
「この家の主とお見受け申す」
 熊の言葉に三人は愕然とした。
「何を言ってるの。苦しいのかい?白湯を飲むかい?」
 実母の辰が膝を寄せると、熊は首を横に振る。
「いや奥方、白湯よりも酒を所望いたしたい」
 尋常でない熊の様子に辰は腰を抜かしている。
「粂三郎…お前は本当に粂三郎なのか?」
 父親の問い掛けに熊は首をくるりと回した。
「おとっつぁん、おっかさんは生きていなさるよ」
「何?それは、るいのことか?」
 熊はこくんと頷く。
「おっかさんは使用人と逃げたんだよ」
 うろたえたのは辰である。
「粂三郎!おまえ、一体何てことを言うの」
 一方父親は冷静だった。
「粂三郎、お前はあの日、市ヶ谷にいた筈だぞ。なぜそんなことが分かる」
 熊は再び首を回した。すると切れ長な目が突然クククッとつり上がった。
「我は粂三郎にあらず。正一位稲荷大明神であるぞ」
 その鷹揚な口調は明らかに熊でない、何か別の者であった。
「詳しく聞かせて欲しい」
 父親が尋ねると、熊は不思議な身の上を語り始めた。
「我が名は白狐葛の葉。和泉の国信太山を生国といたす。伏見稲荷をふりだしに、諸国を遊歴しておる。関東八州の本山、王子稲荷に身を寄せて幾年月、本日飛鳥山を遊山せし折、この若衆の身に憑依したものなるぞ」
「粂三郎は私どもの倅でございます。何故憑依をするに至りましたのでございますか?」
「憑依は我ら畜類の保養である。この者に害悪を及ぼす意思は無い。五日程この身を拝借した後はこの者の病を取り除いて去るによって心配するな」
 熊はそう言って莞爾とした。
 自分の息子がこんな事を口走り始めたら、普通の親なら卒倒するか、胡散臭い祈祷師に頼んで御払いをしてもらうか、はたまた全く相手にせず、座敷牢に閉じ込めたりするものだが、熊の父七右衛門は、白狐葛の葉の言葉を信じ、客人の扱いで手厚くもてなすことにした。
 白狐葛の葉は、尊大な態度や言葉遣いさえ気にしなければ、その博識には目を見張るものがあり、芳三郎は足繁く別宅に通い、様々な話を聞いた。
「そなたは我々人に憑く狐が、その辺りの野っぱらを駆けては野鼠や飛蝗を食い、木の洞に暮らすあの野狐どもと同じ畜類とお考えか」「違うのですか」
「我々は肉体を持たぬ霊獣である。そのため普段は全く人の目には見えぬ。また、たやすく人にとり憑くことが出来るのも肉体を持たぬからである」
「葛の葉殿は憑依が保養であると申しますが…」
「肉体を持たぬ者は万事自由自在である。しかしその一方で非常に詰まらぬものだ」
「詰まりませんか」
「精神が肉体に宿ってこそ、苦労もあり、また喜びもある…ということである」
 芳三郎は未だにこの白狐葛の葉が疑わしかった。熊が演技を凝らして、両親や自分を謀っているのではないかと思ったのである。そのため色々と話をさせて、その言葉の端々に熊自身の性質を探り出そうとしたが、なかなか尻尾を出さなかった。
 葛の葉は古歌を諳んじ、また漢詩にも明るく、酒を飲み、興に乗ると熊の母の三味線を爪弾きながら李白や杜甫を詠じる。揮毫も巧みであった。学問よりも武道という普段の熊からは全く考えられないことばかりである。
 芳三郎は芝居の看板絵を描く鳥居派の絵師、鳥居清満の画風に以前から憧れており、独学で絵を描いていた。葛の葉に自作の俳句や短歌、三題噺を披露した際、ついでに描いた絵を見せると才覚があると評価された。
「しかし、絵師として身を立てることは無いであろう」とも断言された。

 熊の父七右衛門は花見の日の夜に熊が口走った、本妻が生きているという言葉がずっと心に引っ掛かっていた。焼け跡から遺体が見つからなかった以上、生きているという可能性も十分に考えられる。しかし、市ヶ谷にいたはずの熊が何故、るいの消息を知っているというのか。
 七右衛門は伊勢に本店のある太物問屋の江戸店に丁稚奉公し、番頭まで勤め上げた。江戸店の一切を任されるようになったものの、武州の出であること等の理由から、のれん分けを許されずにいたが、間もなく四十にも手が届くという頃、伊勢出身の女るいを嫁にしたことから運気が動いた。当主が早くに亡くなった妻の実家も太物問屋であったが、実質上は商売が成り立ってはいなかった。七右衛門は妻の実家が所有している太物商いの株を譲り受け、大伝馬町で武蔵屋の号を掲げて店を持つこととなった。初めは小商いであったものの数年後には伊勢の店とも肩を並べるようになった。
 全てが順調であるかのように見えたが、唯一子宝には恵まれなかった。
 今の店があるのも妻の実家のお蔭であることを思えば離縁は難しい。そうこうしているうちに馴染みの芸妓辰弥に男子が産まれた。それが熊である。
 芸妓を妾にすることにも、その子を引き取ることにも、妻は反対しなかった。七右衛門は妻への気配り、思い遣りを疎かにしたことはなかった。例え子が出来なくても、決して夫婦仲がこじれていたわけではなかった。
 共に逃げたという使用人にも実は心当たりがあった。自分が伊勢屋の番頭であった頃から目をかけ可愛がっていた手代、茂兵衛である。自分の店を持つにあたり前の店から引き抜いたのだ。
 るいは今年三十一、茂兵衛は二十七である。とはいうものの二人の現場を押さえたわけではなく、それ以外の使用人はかなり年が離れているというだけで、この疑念は七右衛門の憶測に過ぎぬ。
 ともあれ使用人が主人の内儀と通じれば、両者とも捕えられ市中引き回しの上処刑される。
 全幅の信頼を寄せていた男に妻を寝取られたのかも知れないという妄執から湧く憤懣が無いわけではなかった。しかし二人を探し出してお上に申し出れば、結局は己が恥ともなり、また二人をむざむざと死なせることになるのも何だか後味が悪い。このまま余計な詮索はすべきではないのか。

 葛の葉が熊に取り憑いて三日目、芳三郎が深川の出店にやってくると、七右衛門が店の中で読み本をめくっていた。
「何かお探しの本がございましたか?」
「いえ、芳さん、お前さんを待っていたんですよ」
 店を出て、二人は門前町に向かった。
「今朝方、辰が粂三郎の部屋に膳を運んだ時、後で主人に話があると言われ、私を呼びに来ました」
 葛の葉は狐だからといって、油揚げや天麩羅を好むでなく、普通の食事をしている。飲食はこの身体のためであるとの理由であった。
「また、粂三郎があのことを口走ったのです」
 七右衛門は低い声でそう言った。
「お内儀が生きていると?」
 芳三郎も声をひそめた。
「はい、葛の葉狐も、今のは倅の声であると申すのです」
 正一位稲荷大明神の葛の葉にとって、富ヶ岡八幡神は同類である。しかし成田山の別院、深川不動堂の不動明王の威徳が勝るこの地では、霊力の強い白狐であっても取り憑いた人を完全に操ることは困難で、憑坐の意思がまま現れることがあるのだという。
「粂三郎は、恐らく何かを知っているのです」
「では、お内儀の消息を?」
「だが正気に戻っても、私に本当のことを言うとは思えない」
 七右衛門は顔を曇らせる。
「私はこれまで粂三郎をちゃんと見てこなかった。躾はるいに任せっきりで、粂三郎が常日頃何を考えているのか、気にかけることも無かった。仕事が忙しかったこともある。しかし火事の日以来、粂三郎と別宅で一緒に暮らすようになって、そしてあのようなことになってから、このままではいけないのだと気付いたんです。芳さんとは、昔からの馴染みだし、お宅にもよく泊めてもらっているそうですね。何でも結構です。心当たりがあれば、教えていただきたい」
「わたしもこれといって深い相談事をされたことはありません…」
 そう言いかけて、芳三郎は少し気になっていたことを思い出した。
「でも粂三は、神田のお母上を嫌っていたわけではないようです」
 芳三郎と七右衛門は門前の水茶屋に入った。
「火事の日の前夜、粂三がわたしの所に来たんです。泊めてくれというので、何か家に帰れない事情でもあるのかと思いましたが、何も聞かずに泊めました」
「そうでしたか。わたしはあの晩、帰ってすぐに寝てしまいましたが、るいは遅くまで起きていて帰りを待っていたようです。結局朝になっても粂三郎は帰ってこず、私は家を出ました」
「粂三はうちに来る途中で拾ったという子猫を置いていきました。神田のおっかさんが猫嫌いだからと言っていましたっけ」
「猫嫌い?」
「嫌いと言うか、苦手なんでしょう。おっかさんは猫が近くにいるとくしゃみが止まらなくなるから、家に猫は持っていけないと。ご存知じゃ?」
「いいえ、知りませんでした」
「そうですか。…今思うと、あの晩粂三が家に帰らなかったのは、あの猫を拾ったからなのではないかと思うんです。猫が苦手な人というのは毛や臭いだけでもくしゃみが出ると言いますから」
 七右衛門は運ばれてきた茶にも口を付けずじっと考え込んでいた。
「わたしは、粂三郎だけでなく、るいのことも何も知らなかったのかも知れません」


第五話につづく