葛の葉〜黙阿彌異聞〜第五話
作:蒼馬要
それから二日後、今度は芝の芳三郎の元に七右衛門が直々に訪ねてきた。
「いよいよ明日ですね」
白狐葛の葉が熊の身体から去ると約束した日のことである。七右衛門に頼まれ、芳三郎は誰にも口外せずにいた。
「今夜もお宅に伺うつもりだったんですよ」
机上の文箱から芳三郎は冊子を取り出し懐に入れた。この数年の間に書き溜めてきた茶番狂言集である。絵や歌ではなく、一番の自信作を今夜葛の葉に披露するつもりであった。
「そう思いまして、先に伺いました。うちでは一寸話しづらいことなので」
芳三郎が首を傾げると、七右衛門は話し始めた。
「こういう想いも、未練と言うのかもしれません。私はやはりるいが生きていると信じたかったんです」
七右衛門は自ら市ヶ谷に赴き、熊が道場に通う他にどこかへ行ってやしないか調べたのだという。そして十日程前に、熊が近藤周助の使いで三河島に住む知人の家に行ったということをつき止めた。
「手代茂兵衛の遠縁が三河島に住んでおりまして、それで昨日、その者の家を訪ねてきたんです」
七右衛門は俯いたまま話した。
「るいが…おりました…まだ直接は会っていないのですが、茂兵衛に会ってきました」
「では、お内儀はご無事だったんですね」
しかし、七右衛門の表情から、素直に喜べるような状況ではないと知り、芳三郎は俯いた。
「これはお預かりしていた本宅の蔵の鍵でございます」
七右衛門の前に現れた茂兵衛は畳に頭をこすり付けるように平伏した。
火事の日、茂兵衛は古い帳簿を調べるため、本宅の蔵の中にいた。火事に気付いて蔵から飛び出した茂兵衛は、邸の中で恐ろしさに身をすくませ、動けなくなっていたるいを見つけた。強風によって火の手よりも早く降り掛かってくる火の粉の雨を避けながら、手に手を取って走り続け、焼け落ちる前の両国橋を渡って逃げたのだ。
「奥様は足を挫かれ、右目の瞼を火の粉で火傷しておりました」
回向院には火事から逃れてきた者が犇いていた。ここで応急の手当てをすると、茂兵衛はるいを背負って深川に向かおうとしたのだという。朝、七右衛門が問屋仲間の会合で深川に行くと言っていたことを覚えており、無事であれば別宅にもきっと寄るであろうと思ったのであった。
「言い訳にしかならないこととは重々承知でございますが、私はすぐに奥様を旦那様の元に、お届けするつもりでございました…ですが…」
「るいが…拒んだのだな?」
茂兵衛は頷いた。
「深川の…別宅には…どうしても行きたくないと…」
茂兵衛は思案し、唯一の縁者を頼り、三河島までるいを連れてきた。
数日して、るいはようやく起きられるようになり、その後町医に通って治療を続けた。
「足の具合も今ではもうすっかり良くおなりです。火傷の跡も医者の見立てでは殆ど残らないとのことです。ただ、今はお会いできぬと申しております」
「粂三郎も、私に話すべきかどうか悩んでいたのではないかと思います」
茂兵衛に手を引かれ、袖頭巾で顔を隠すようにして医者に通うるいを、熊は目撃してしまったのかも知れない。
「私はあれのことを何も知らずにいた。別宅に来たくないと茂兵衛に訴えたと聞き、何故もっとあれの気持ちを察してやれなかったのかと思いました。妾を囲うことも、粂三郎を後継ぎとすることも、あれが何も口答えせずにいたので、てっきり得心していると思い込んでいたのです」
妻が手代と通じているのではと疑ったことを七右衛門は後悔した。妻は七右衛門を慕うが故に妾宅に行くことを拒み、また茂兵衛も誠心誠意主人である自分とるいの間で板ばさみになりながらも、尽くしてくれていたのだ。
「思えば、粂三郎はるいが生きている、使用人と逃げたとしか言わなかったんです。それを私は勝手に勘繰り過ぎてしまった」
七右衛門は茂兵衛に幾許かの金子を当座の生活費として預け、また世話になっている家主にもまた日を改めて礼に伺うことと、懐紙に包んだ小判を渡すよう頼んで帰ってきた。
「今夜、辰にはるいが無事なことを話します」
深川の別宅の玄関を入ると、たたきを掃いていた女中が頭を下げ、奥に声を掛ける。
「奥様、旦那様がお帰りでーす」
七右衛門は小声で芳三郎に囁いた。
「辰は辰で、るいの後添えになることをずっと嫌がっておりましてね。別にるいを嫌ってというわけではなく、芸妓としての性分で商家の内儀になることに我慢ならないのです」
「奥様はお止しと言ってるじゃあないか」
女中をたしなめながら現れた辰は、笑顔で七右衛門と芳三郎を出迎えた。この艶っぽさは確かに柄ではないなと、芳三郎も思った。
葛の葉は芳三郎の茶番狂言を興味深く読んだ。
「善哉善哉、いや、お前は実に面白いものを書くな。まるで八笑人そのものだぞ」
庭の桜の花が散り、座敷の中には花びらがひっきりなしに舞い込んでくる。
「鯉丈をご存知ですか」
『花暦八笑人』は鯉丈とその仲間の実話から書かれたとの噂であった。
「あの者たちが飛鳥山に来た折、店請けの親仁に憑依して六部役の頭武六を酔い潰したのは某」
「では、わたしたちが一昨年の春、飛鳥山に行った頃にもおいででしたか」
葛の葉は首を横に振った。
「いや、その頃は少し遠出をしていてな、那須におった。殺生石に封じ込められた妖孤、金毛九尾の玉藻御前の元を訪れていた」
葛の葉は畳の上の花びらにフッと息を掛けた。花びらは渦を巻いて天井まで舞いあがり、再びハラハラと落ちて膳の前に降り積もった。するとあたかも鳥瞰図絵を広げたかのように箱庭程の大きさの築山が現れた。
「これは飛鳥山ですね」
芳三郎が桜の合間から山を覗き込むと、小さな人々が楽しげに宴を開き、飲めや歌えの大騒ぎである。その中に美しく着飾り狐の面を被った若衆がゾロゾロと現れた。
「…わたしたちがいる…」
葛の葉はうんうんと頷き、ポンと一つ手を打った。
気が付くと二人は飛鳥山に立っていた。いくつもの提灯が桜の木の間に掛けられ、ほんのりと照らし出された木の下では、狐の面をつけて思い思いの扮装を凝らした男女が楽しげに踊っている。葛の葉は踊りの輪に交じり軽やかに舞っている。芳三郎も始めはその場で手踊りをしていたが、次第にいてもたってもいられなくなり、踊りの輪に加わった。
朝、障子の隙間から差し込む朝日の眩しさに芳三郎が目を覚ますと、隣りでは熊が眠りこけていた。
熊はまさに憑きものが落ちたかのように、元の明るさと快活さを取り戻した。
ここ数日のことを訊ねても、おぼろげにしか覚えておらず、まるで夢でも見ていたかのようだとしか答えなかった。父親に三河島に行った時のことをそれとなく聞かれたが、道場へ漬け菜を山ほど持って帰ったということしか覚えていなかった。
お辰は身一つで逃げ、何かと不自由であろうと、るいに似合いそうな着物や帯、化粧道具など身の回りの品を揃え、三河島に手紙とともに届けた。すぐにお礼の返事が届き、夫にも対面し、詫びを述べたいという旨が書かれていたので、早速七右衛門は三河島に行った。
「あなたにも辰様にも、粂三郎にも心配をお掛けいたしました…」
ほぼ二月ぶりにるいは七右衛門と対面した。るいは以前よりも少し身体や顔つきがふっくらとしているように見えた。
「別宅に来たくないというお前の気持ちに気付かなかったのは私の落ち度だ。だが、無事であることは茂兵衛に知らせに来させれば良かったのだ」
七右衛門が優しく声を掛けると、るいはハッと頬を赤らめて俯いた。
「だって…酷い顔だったんですもの…」
詳しく訳を聞くと、るいは火の粉で焼けた髪と火傷で醜くなった顔を夫に見られたくなかったのだという。無事であることを知らせれば、すぐ三河島に来てしまうと考え、火傷が治り、髪が伸びるまではと茂兵衛にも口止めしていたのだ。
まるで落語の『三年目』のようで、そのことを聞いた芳三郎はつい笑みが零れた。
さらに七右衛門を喜ばせる知らせがあった。るいはその身に子を宿していたのである。初産であるため、初春の頃には体調の変化に気付かなかったが、夏の終わりか秋の始めには産まれるであろうとの見立てであった。
七右衛門は焼け残った邸の蔵にあった金で材木を調達すると、お玉ヶ池の屋敷再建を最優先にした。屋敷が完成するまで、るいはそのまま三河島の茂兵衛の親類宅で暮らすことになった。
江戸の町の再建は進み、更地の至るところに積まれた木材にも暖かな雨が降る。