葛の葉〜黙阿彌異聞〜第六話
作:蒼馬要


 七月のある夜、その日は昼からの蒸し暑さが夕方まで引かず、やっと涼しい風が吹き始めた部屋の窓際で、芳三郎は猫のタマとうたた寝をしていた。
「芳三郎」
 誰かに名前を呼ばれたような気がして顔を上げると、窓の細い手摺りの上に犬ほどの大きさの耳の立った獣が立っていた。月の明かりで逆光になったその身体の縁の毛並は銀色に輝いている。影になった顔は両の瞳だけがギラリと光ってこちらを見ている。芳三郎は異様な姿にギョッとしたが、何故かそれが白狐葛の葉であると直感した。
「葛の葉殿」「久しぶりであったな」
 芳三郎は座り直した。
「我はこれから奥州に行く。江戸の暮らしにも飽いたによってな」
「葛の葉殿、一つ聞きたいことがあります。粂三郎にとり憑いた晩、去る時に粂三郎の病を取り除くとおっしゃいました」「うむ」
「粂三郎はどんな病を患っていたのですか。見たところこれといって具合が悪くはなかったように思うのですが…」
「あの者は武術の鍛錬をしておるであろう」
「はい、市ヶ谷の近藤周助様の元で天然理心流という剣術を学んでおります」
「あの者は武士の諍いに巻きこまれて命を落とす運命であった」
「粂三郎は町人です。何故そんなことが…」
 葛の葉は少し考えていたが、
「我らは人の世に関わり過ぎる事をよしとしないが、お前は真人間であるから特別に教えてやろう。この世は変容するのだ」
「公方様がお亡くなりになるんですか?」
「将軍も寿命が来れば死ぬ。それだけではない、幕府そのものの寿命が尽き、無くなるのだ」
 葛の葉があまりに突飛なことを言うので、芳三郎は思わず吹き出してしまった。
「しかし、すぐにではない。その前に色々なことがある」
「ええ、そうでしょうとも」
 芳三郎の半信半疑、いや、完全に疑っている様子を葛の葉は察したようであった。
「いずれ分かる日が来る」
 負け惜しみのようにしか聞こえなかったが、まだ質問に答えてもらっていない。芳三郎はもう一度問うた。
「…で、粂三郎の病とは…何だったのですか」
「侠気だ。町人に不似合いの侠気を持っておったのを、我が程よく抜き取った。それ以外は何も変わらぬ。あの者は天寿を全うするであろう」
 熊が無事であると聞き、一先ず安心した。
「芳三郎よ、お前も変わる。間も無くだ。では、さらば」
 そう言い残すと、葛の葉は眼前から忽然と消えた。背後の空に掛かった月の中に飛んでいったかのようであった。芳三郎は立ち上がり窓の外を見回したが深更の街路は人影も無く、ひっそりと静まりかえっていた。

 実家から父危篤の知らせを持って使いがやって来たのは葛の葉が去ってすぐ後のことだった。
 酒も遊びもせず、謹厳実直に、ひたすら吉村家を再興し、守り続けてきた父は五十の坂を越えたばかりである。
 屋敷に駆けつけると奥の座敷に敷かれた布団に横になった父を家族と親戚と住み込みの使用人たちが囲んでいた。
「あなた、芳三郎が来ましたよ」
 母が父の耳元で囁くと、父は閉じていた目を薄く開いた。布団から出ている手を芳三郎が握っても、殆ど握り返す力は残っていない。
 夜明けを待たずに、父は息を引き取った。
「おとっつぁん」
 母と姉と、弟、妹たちがワッと泣き出す。芳三郎は涙も出ず、ただぼんやりとその様子を眺めていた。

 父の葬儀が済んだ後も、芳三郎は実家に留め置かれていた。勘当も解け長男の芳三郎が家督を継ぐものと母も姉も考えていた。しかし、芳三郎に質商の才覚がある筈もなかった。
「わたしにはこの商いは向いてないと思うんです」
「でも、お前はこの家の後継ぎなんですよ。貸本屋を辞めたのも、その心積もりがあってのことなのでしょう?」
 芳三郎は葬儀の前に好文堂を辞めた。母が言うように始めは勿論家業を継ぐつもりであったが、母と姉について店に出て、番頭からその業務の仕組みを聞かされるに至って、もう無理であると悟った。
 吉村家には芳三郎が後継者になれなかった場合の保険があった。一つ下の弟金之助である。幼い頃から素直で生真面目な金之助は父の傍で仕事を覚え、十八歳という若さながら、使用人たちからの信望も厚かった。
 芳三郎のたっての希望もあり、家族と番頭とで話し合った結果、金之助が母と姉を後見として家業を引き継ぐことが決まり、芳三郎は若隠居という身分になった。
 隠居であるから、家に居てもすることが無い。好文堂に復職することも考えたが、こちらの都合で辞めた上に、現在は商いも仮営業であるため、使用人も少なくて良く、増やす必要は無いのである。
 芳三郎は自室にこもり、これまでに書き溜めた茶番狂言をまとめる作業に没頭した。また吉村芳三郎という名から"芳々"と号し、俳諧や三題噺などを書いて過ごした。
 夏も終わりを告げる頃、茶番狂言集『朝茶の袋』が完成した。題は朝飯前の茶番を集めたという意味で付けた。

 九月の夕方、久しぶりに熊がやってきた。
 四万六千日に浅草を詣でようと約束していたものの、直前に父が亡くなった。店を辞め、葬儀があり、それどころではなくなった。初七日の済んだ夜、玄関の脇に鬼灯の鉢が置かれていた。芳三郎は熊が置いていってくれたのだと分かった。その礼も言いそびれていた。
 熊は手に風呂敷を下げていた。
「三河島に行ってきたんだ。枝豆を沢山貰ったから持ってきた」
 明日は九月の十三夜で、枝豆を茹でて月に供えるのである。
 先日るいは三河島で女の子を出産したそうである。お玉ヶ池の邸は間も無く完成する。
「顔なんか真っ赤で、手や足の指なんかこんなにちっこくて…」
 熊も度々三河島を訪ねているのだという。妹が生まれたことが嬉しくて仕方ないようだ。
「タマは達者かい?」
「ああ、一緒に連れてきたよ。昼間はわたしの部屋で寝ているが、日が暮れるとどこかに行っちまう」
「ははは、あいつは火事があったことなんか何にも知らねえんだろうな」
「そうさな」
「あいつ、あの晩、犬に追いかけられたかして、木の上で降りれずに鳴いてたんだよ」
「で、熊さんが助けたのかい」
「助けた後でこのまんまじゃ家に帰れねえ、どうしようかと思ってたら、何故か芳さんの顔が思い浮かんだんだ。家の近所にうっちゃらなくてよかったよ。芝まで連れてきたからあいつは火事に遭わずにすんだんだもんな」
 一緒に部屋で夕食を取った後、いろいろと話をしていると、タマが窓から入ってきた
「タマ、タマ、覚えてるか?」
 熊は身を摺り寄せてくるタマを嬉しそうに撫でている。
「そうだ、熊さんに見せたいものがある」
 芳三郎は文箱から茶番狂言集を取り出した。
「今まで書き溜めてきた茶番を一冊にまとめたのさ」
 熊は読み終えるとにこにこと笑った。
「芳さんが好文堂の手代を辞めたって聞いた時は、とうとう年貢の納め時、家業を継ぐんだろうなぁと思ったけど」
「わたしだって最初はそのつもりだったよ。しかし商いは肌に合わなかった。で、この通り若隠居さ」
 熊は真顔で芳三郎を見詰めた。
「芳さんの書いた狂言面白いよ。このまま茶番だけで終わらしちまったら勿体無いよ」
 芳三郎本人が一番そう感じていることだった。肩身の狭ささえ気にしなければ、これからも安穏に暮らせる身分ではある。しかしこのままでは飼い殺しだ。時々無性に焦燥感に駆られる。
「いっそのこと、役者にでもなるかあ…」
 冗談半分に言っておどけてはみたものの、芳三郎を見る熊の顔は真剣だった。
「芳さんは芝居の話をしてる時が一番楽しそうだもの、役者になってもいいと思うぜ」
「でも、それには踊りが出来ないとな」

 江戸の町には華道や茶道、音曲や舞踊といった芸事を教える町師匠の稽古所がいくつもある。芳三郎も遊び人の嗜みとして様々な芸事を習ってきた。大概は器用にこなせたが、唯一踊りだけはどうしても上達しなかった。巧くならないから続かず、教え方が悪いなどと屁理屈をつけてすぐに辞めてしまう。
 茶番にも舞踊は欠かせないが、自分が踊らずとも、他の者が踊れば良かった。しかし役者になるとしたら、いかに下っ端であっても踊りが出来なければ弟子入りも出来ない。


第七話につづく