葛の葉〜黙阿彌異聞〜第七話
作:蒼馬要


 芝宇田川町で踊りの師匠をしているお紋は歌舞伎役者の沢村四郎五郎の娘である。五代目沢村宗十郎の妹分として、先代から直々に踊りを仕込まれ、女でありながら所作事だけでなく、詩吟に合わせた剣舞なども得意としている。また器量も良く、何より教え方が上手であるとの評判を聞き、芳三郎は入門を申し込んだ。
「吉村芳三郎さん…住まいは芝金杉町。ああ、お前さん、好文堂で手代をしてたのかい」
 髪は銀杏返し、錆色と茄子紺の万筋の袷、黒繻子の襟、露芝柄の帯をゆったりと締めた姿は粋な年増といった風情だ。既に弟子入りしている知人の紹介状とともに差し出した身上書に目を通しながらお紋は頷く。
「はい、よろしくお願いします」
 芳三郎は扇を前に置いて頭を下げた。
「どこかで踊りを習ったことはおありかい?」
「…少々かじった程度ですが…」
「だろうね」お紋はくすりと笑った。
「以前、大川べりでお仲間たちと茶番狂言を打ってるのを見たことがある。勘平をやっていたの、お前さんだろ」
 天保二年の春、前年の茶番の成功に気を良くした芳三郎は『仮名手本忠臣蔵』三段目、お軽と早野勘平の道行の場面を茶番劇に仕立て、伊之助、竹蔵らと芝居を打った。
 ところがそれから二年後の昨年三月、河原崎座で『道行旅路花聟』というそっくりの清元舞踊が上演された。後で分かったのだが、斯波連中の茶番狂言を偶然見掛けた三世尾上菊五郎が、先日面白い茶番狂言を見たと七代目に語ったことから出来た舞踊劇だった。お紋はその時父親のお供をしており、菊五郎らと一緒にその場にいたのだという。
 河原崎座の客席で『道行旅路花聟』を見た芳三郎は大変肝を冷やしたことを思い出した。
「それにしても、おまえさんのあの踊りはいただけなかったねえ」
 斯波連中の中でも一番踊りが苦手な芳三郎は、途中から現れる追っ手の鷺坂伴内を演るつもりが、くじ引きで勘平を演ることになってしまった。歌舞伎の見様見真似、自己流で覚えた踊りで凌いだものの、半道敵の伴内よりも滑稽な勘平になってしまった。
「何でもいいから、お前さんの得意なものを踊ってごらん」
 お紋に促され、芳三郎は羽織を脱いで立ちあがると着物の裾を端折り、手拭で鉢巻をして、茶屋遊びをしていた頃、幇間に習った奴さんを踊った。
「おとーもぉはぁつぅらいね…」
 お紋の端正な顔の眉間に微かにしわが寄る。
「もういいよ」
 鉢巻を取り、裾を直して座ると、お紋は軽く溜息をついた。
「お前さん、踊りを踊るのは楽しいかい?」
 芳三郎はすぐに答えられなかった。白狐葛の葉とともに踊ったあの晩のように、浮かれて身体が自然と動き出すような踊りは楽しい。しかし巧く踊ろうと意識しての踊りは全身がギクシャクとして楽しむどころではない。
「踊りはね、才分が物を言うんだ。才分さえあれば、突き詰めりゃ手足が無くたって踊りは踊れる」
 お紋の口調は厳しかった。
「才分が無い者にはいくら教えても上達しない。芳さん、わたしが見たところ、お前さんには踊りの才分は無いよ」
 自分でも分かっていたが、他人からここまで正直に断言されたのは初めてだった。芳三郎は俯いたまま奥歯を噛み締めた。ただ芝居が好きなだけでは役者にはなれないのだ。
「そうですか…失礼いたします…」
 芳三郎はそれだけ言うのが精一杯だった。退出しようとすごすご立ちあがると、お紋が慌てて呼び止めた。
「一寸お待ちよ。踊りの才分は無いと言ったが、あの狂言を書いたのはお前さんだろう?」
「はあ…」
 顔を上げ、お紋を見ると、さっきとは打って変わって表情も和らいでいる。
 確かに踊りは見られたものではなかったが、芳三郎は書いた者の強みで、他の者の台詞も全て覚えており、誰かが言いよどむと小声で教えて助け、また細かな気配りで全体をうまくまとめていた。お紋はその様子を感心して見ていたのだという。
「そこでものは相談だが、お前さん狂言方の仕事に興味は無いかね」
 狂言方とは狂言作者の見習いである。書抜きを作ったり、舞台の上手で役者の動きに合わせて柝の付け打ちをしたり、芝居小屋の下働き全般を担当する。
「狂言方…ですか…」
 お紋は頷いた。
「そう、わたしの遠縁で鶴屋孫太郎さんという人がいるの。あの『四谷怪談』の大南北先生の、娘婿の養子だから孫に当たる人。元は役者だったんだけど、大南北先生に弟子入りして河原崎座で見習から身を立てて、三立目(序幕)を任されている狂言作者なのよ」
 鶴屋南北とは、四世の大南北のお蔭で狂言作者の印象が強いが、三世までは役者、しかも道化方の名である。
「木挽町近くの住まいが二月の火事で焼けちまって、今うちの離れで暮らしているの。その孫太郎さんが狂言方の見習を探していてね」
 芳三郎はじっと話を聞いていたが、胸はドキドキと高鳴り始めていた。
「良ければ紹介するけど…お前さんも芝居好きなら存じているだろう、見習はなにしろ大変な仕事だ、興味半分で入門するようなのは、すぐに辞めちまうそうなんだ」
 お紋が言うように狂言方は役者や作者の下でこき使われる、かなり厳しい仕事である。その見習といえば裏方最下層の身分。しかし看板の下絵描きや書抜き作りなどは貸本屋の仕事も忘れて手伝っていたくらいである。ちっとも苦労とは思わなかった。
「是非…是非お願いします!」
 芳三郎はお紋に飛びつかんばかりに居寄った。
「そうかね、じゃあ、孫太郎さんに話しておくから、また明日昼過ぎに来ておくれ」
 もし弟子入りが許されれば、あの大南北の孫弟子になれるのである。


最終話につづく