葛の葉〜黙阿彌異聞〜最終話
作:蒼馬要


 翌十月十二日、芳三郎は『朝茶の袋』を持って、再びお紋の家を訪れた。
 生垣越しに庭を見るとはなしに覗くと、縁側で見事な懸崖仕立ての白菊の手入れをしている中年の男がいた。もう十月だというのに木綿の着流しの上にしじら織の筒袖羽織という植木屋にしては妙な形が目を引き、ふと立ち止まって見ていると目が合ったので、芳三郎が軽くお辞儀をすると、男も頭を下げた。

 お紋に紹介されたのは先ほど庭にいた男であった。
「こちらが鶴屋孫太郎さん」
 羽織は脱いでいたが、相変わらずちぐはぐな恰好であることに変わりは無く、月代も伸びるままにしている。
「こちら吉村芳三郎さん」
 芳三郎は頭を下げる。孫太郎はニコニコしている。
「お紋さんから大体の話は聞いてます。お前さんは芝居が大好きだそうだね」
「はい、始めは役者になりたくて、こちらで踊りを習おうと思いましたが才分が無いと断られました。役者にはなれなくても、何らかの形で芝居に関わっていければと思いまして」
 芳三郎は懐から『朝茶の袋』を取り出し、孫太郎の前に差し出した。
「これはわたしがかつて遊び仲間とやっておりました茶番狂言をまとめたものです」
 孫太郎は本を受け取ると、少し読んで顔を上げた。
「本の書き方は誰に習ったんだい?」
「貸本屋の手代をしていました時分に独学で覚えました。小屋の楽屋に出入りすることもあり、書抜きの手伝いなどもいたしまして、狂言方の仕事は多少心得ています」
「これだけ出来れば、すぐに勤められそうだ」
 孫太郎は丁寧に読み終え、芳三郎に返した。
「狂言方の仕事は決して楽ではないが、狂言作者になるためには大事な修行です」
「では…」
「入門を許しましょう」
「あ、ありがとうございます」
 芳三郎は何度も頭を下げた。
「孫太郎さん、来年は市村座に出勤することが決ったんでしょ」
「ええ」
「いよいよ立作者になれそうなの?」
「さあ、どうですか」
 お紋の言葉に対して、孫太郎ははっきりと返事をしない。
「もう、いつもこうなんだから。もっと押しが強くなきゃ、いくらいい本を書いても座元や座頭には認めてもらえないわよ」
 随分つけつけときついことを言うものだと芳三郎は思ったが、気心が知れているのか、孫太郎は相変わらずただにこやかにしている。
「孫太郎さんはね、こう見えて五世鶴屋南北を襲名するお方なのよ」
 お紋の言葉に芳三郎はえっと驚き、孫太郎を見た。
「先代の遺言てぇだけですよ。それもいつになるやら…」
「そんなこと言うもんじゃないわ。南北のおじ様はあなたの才覚を見込んで、後継ぎにとおっしゃったんじゃありませんか」
 そういえば、芳三郎はこの孫太郎の筆になる芝居というものを意識して見たという記憶がなかった。孫太郎がこれまで勤めていた河原崎座では座元の意向で舞踊以外は在り物狂言が多く、全くの新作を発表する機会に恵まれなかったというが、大南北の狂言はアクの強さ、どきつさですぐに分かる。南北の名を継ぐのだとしたら同様にケレン味のある狂言を書くのであろうと思ったが、そうではないようだ。

 稽古のためにお紋が席を外し、部屋に二人きりになった。芳三郎は聞きたいことが色々とあったが、聞けずにもじもじしていた。
「芳さん」「はい」
 孫太郎は小さな声で話し始めた。
「狂言作者に一番大事なものは何か、分かるかい?」
 芳三郎はしばらく考えた。
「面白い本を書くこと…ですか」
「そうだ。面白い本、それは誰にとって面白いと思うね?」
「…役者や、見物や…その芝居に携わる全員が面白いと思えることが大事だと思います」
 孫太郎もうんうんと頷く。
「でもな、ホントの狂言てぇのは役者の数も、見物の数もお前さんがやっていた茶番に比べたら桁違いだ。おまけに厄介な座元までいらぁ。関わる人間が増えりゃ、それだけ誰もが納得する本を書くのは難しくなる」
 たった三人でやっていた茶番でさえ、時に大揉めに揉めたっけ…と思いながら、芳三郎は孫太郎の話に耳を傾けた。
「座元が小屋に掛けたがり、役者が演じたがり、そして見物が見たがる、そういう狂言を書くために大事なのは、座元に阿り、役者に媚び、見物に諂うことじゃない」
「では、どうすればいいんですか?」
 孫太郎はニヤリと笑った。
「その反対さ、常に作者としての己を見失わないことだ」
 勘のいい芳三郎であったが、孫太郎のその言葉にはピンと来なかった。
「狂言作者ってぇのは、狂言を書くためにいる。座元、役者、見物のために、時には自分を殺してでも不本意なもんを書かなきゃならねぇ。特に駆け出しの頃はそんなことばかりさ」
 孫太郎は続けた。
「しかしだ、ただ人の言いなりになって、頼まれた狂言ばかりを書き続けていたら、そいつぁいつか必ず行き詰まっちまわ。自分を殺して勤めるてぇことは、自分を無くしてもいいってこっちゃねぇ。自分の書きたいもんを持ち続ける、つまり己を持ち続けることが狂言作者には大事なんだ」
 狂言作者を生業とする者の言葉の重みに、芳三郎はゾクリと背筋が震えた。
「先代が頻りにそうおっしゃっていたんだよ」
「南北先生が…」
「あのお方は下積みの時期が長くって、ずっと不遇を託っておいでだったから、座元の要求や役者の我侭、見物の評判には随分と苦労なさったんだ。立作家になってからもそれは変わらなかったそうだが、偉くなりゃ周りはやたらとちやほやする。ともすれば奢り、慢心し、一人よがりになっちまう己の心を戒めるためにも、折に触れて口癖のようにおっしゃっていたんだよ」
「作者としての己を持つこと…」
 孫太郎は頷いた。
「わたしもまだその兼合いが分からないのさ。芳さんも精々努めて、自分なりの狂言作者の道を見つけておくれよ」

 芳三郎が師匠から付けられた名は勝諺蔵。四世鶴屋南北が若い頃に名乗っていた勝俵蔵の名に因んでいる。

 翌年三月、芳三郎は狂言方見習として、市村座に出勤する。芳三郎は後の河竹黙阿彌その人である。


終わり

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