モッコウバラ 第二話
作:蒼馬要
「橋占っていう占いがあってね…」
友人の環は梨優にそう話し始めた。
環とは入試会場となった教室で隣りの席に座ったことがきっかけで親しくなった。梨優は美術を選択し、環は音楽を選択したのでクラスは別々になったが、何となく気が合い、一緒に昼食を取ったり、休み時間や放課後は一緒にいることが多かった。
「橋は沢山の人が行き交う所でしょ。話をしながら通り過ぎる人もいるじゃない。橋の袂に立って耳を澄ませて、聞き取れた言葉の内容で吉凶を占うの」
「それで?」
「梨優が話し声を聞いたのは通りかかった数秒のことでしょ?」
数秒ではない、本当はもっと長い間立ち聞きしてしまった。
「聞いた会話だって断片に過ぎないものなんだから、気にすることないのよ」
週末の午後、梨優は男の家を訪ねた。
「こんにちは」
「こんにちは」
梨優は挨拶したあと、しばらくもじもじとしていた。
「どうしました?」
「あの…もし、迷惑じゃなかったら、チェロを弾いているところを見せてくれませんか?」
男は首を傾げる。
「わたし高校で美術を専攻しているんです。静物画や風景画はわりと自信があるんですけど、人物画が苦手なんです。先生や先輩から、とにかく何枚もデッサンをするのが大事だって言われて、でも、なかなか…それで、楽器を演奏している人を描いてみたいんです…」
家で繰り返し練習してきた台詞を一気に説明した。
「いいですよ、どうぞ」
通された部屋には中央にスツールが一つ置かれ、サイレントチェロがスタンドに立て掛けられている。壁際にはソファの横にチェロのケースが幾つも並んでいる。
梨優は手提げバッグの中からクロッキー帖とペンケースを取り出し、手提げを床に敷き、その上に座ってクロッキー帖の新しいページを開いた。
「僕は動かない方がいいですか?」
スツールに腰掛けた男はチェロを抱える。
「いえ、弾いててください」
梨優はそう言って、ペンケースから鉛筆を出して握る。
「では、小さな音が聞こえるようにしましょう」
男はアンプにコードを繋げると、チェロの電源を入れ、弦に当てた弓をゆっくりと動かし始めた。曲はサン=サーンスの『白鳥』
しばらくして、男は演奏の手を休めると立ち上がった。
「少し休憩しましょう」
「あ、いえ、わたしは…」
「僕が疲れました」
梨優は真っ赤になった。
「…すみません、気付かなくて…」
男は隣りのキッチンに行き、冷蔵庫から缶コーヒーを二本持って戻ってきた。
「いただきます」
「どうですか?」
「やっぱりうまく描けないです…あ、見ないでくださいっ!」
「ははは」
コーヒーを飲みながら、弾いていた曲の話をした。
「最初の曲はサン=サーンスの『白鳥』。その次がラフマニノフの『ヴォカリーズ』…」
「クラシック好きですか?」
「えと…、そういうわけでは…」
「ラフマニノフを知っているし」
「深夜にテレビで映画の放送をしてて、そのテーマ曲なんです」
「じゃあ映画が好きなんですね」
「はい、テレビやビデオばかりですけど…三曲目に弾いたのは何ていうタイトルですか?」
「フォーレの『夢のあとに』という曲です。その後に弾いたのはバッハの『平均律クラビーア』のプレリュード」
梨優はクロッキー帖の隅に曲のタイトルを走り書きした。今度レンタルビデオ店に行ったら探してみようと思った。
「質問、いいですか?」「はい」
「どうしてチェリストになろうと思ったんですか?」
「両親の影響が一番大きいですね」
同じオーケストラで知り合ったバイオリニストの父親とピアニストの母親の影響で、物心付く前から音楽と楽器に触れていたため、将来は音楽家になるのだと早くから自覚していたという。
「宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』って知っていますか?」
「はい、小学生の時に読書感想文を書くので読みました」
「子供の頃に僕もあの話を読んで聞かされてね、セロというのはチェロのことだと知った。初めはあまり巧くセロを弾けないゴーシュが、毎晩一生懸命練習してうまくなっていく物語が大好きで、自分も努力して練習を続ければ、ゴーシュのようなセロ弾きになれるかもしれないと思いました。チェロを選んだのはそんなことが理由かな」
梨優は『セロ弾きのゴーシュ』をもう一度読んでみようと思った。
「もう少しだけいいですか?」「はい」
それから男が二曲弾く間、梨優はデッサンを続けた。
「お役に立てましたか?」
帰りは玄関まで送ってもらった。
「はい、ありがとうございました…あの、わたし、水野梨優といいます」
「梨優さん」
「ええと…お名前…教えてください…表札が無かったから…」
「ああ、そうでしたね。吾妻です」
「…吾妻さん、ありがとうございました」
梨優はもう一度頭を下げて家を後にした。