モッコウバラ 第四話
作:蒼馬要
「水野さん、合宿参加の確認を取っているんだけど…」
放課後、美術室に行くと美術部長の羽田に声を掛けられた。
「え、合宿って、いつですか?」
羽田は頭を掻いて、ふぅと溜息をつく。
「先週部活が始まる前に言ったし、掲示板にも貼ってある」
教室の後ろの掲示板にプリントが貼られている。梨優は慌てて見に行った。七月の二十二日から四泊五日の日程だった。
「強制ではないけど、出来れば全員参加して欲しいんだ。水野さん大丈夫?」
吾妻もその頃には帰ってくるはずだが…
「…もう少し待ってくれますか?」
「宿泊費用はまだ先でもいいけど、参加不参加は今週中に決めてね」
夏休みが始まる頃、吾妻がツアーから帰ってきた。
梨優は吾妻の留守中、ほとんど毎日通って水をやり、休みの日には株の周りの雑草を抜き、家の花壇に使っている肥料などを撒いて世話をしていた。この時期には珍しい台風が続けてやってきたものの、支柱を立ててあったので被害はなかった。
庭にはモッコウバラ以外に植物が植わっていないため、かなり殺風景だったが、モッコウバラの茂みの辺りだけは水気を含んで涼しげであった。
「わたし、来週美術部の合宿に行くんです」
「夏合宿ですか…懐かしいなあ。僕も学生時代にやりましたよ」
「吾妻さんも?」
「ええ、弦楽器も管楽器もピアノも打楽器も、声楽も合わせて、全てのパートのメンバー全員で合同合宿をしたことがあります」
「それって、すごい人数でしょ?」
「オーケストラが出来ますからね。管楽器や打楽器は体育会系で、弦楽器やピアノは文科系なんですよ」
そう言われても梨優にはよく分からなかった。
「体育会系と文科系が合同合宿するわけだから、大変だけど何だかとても楽しくってね…」
吾妻が嬉しそうに話す様子を見ているだけで、梨優も嬉しくなった。
「気を付けて行ってらっしゃい」
美術部の合宿は、吾妻の話していたような共同作業的なことは無く、ひたすら朝から夕方まで絵を描き続ける孤独な作業が続きそうだった。
「いつもやってることと、変わりないかも…」
午前中一時間ほど絵を描き、宿舎に戻って昼食を取った後、同室になった麗衣子とこぼしていると、羽田が顔を覗き込んだ。
「そんなこと無いよ」
「何かあるんですか?」
羽田は笑った。
「夕食の後、全員で批評会があるから、下描きだけじゃなくて、ある程度仕上げとかないと、何してたんだってこっぴどく言われちゃうよ」
梨優たちは慌てて絵を描きに飛び出した。
その晩の批評会は何とか事無きを得たが、梨優たちは描いた絵を座敷とガラス障子で隔てた窓際の板の間に置いたイーゼルに乗せて乾かしていた。油の匂いが部屋に篭るのを防ぐために、少し窓を開けて。
翌朝、ガラス障子を開けた麗衣子が悲鳴を上げた。
「どうしたの?ああっ!」
網戸の端が破れていて、板の間一面に見たことの無い蛾や甲虫の死骸が落ちていた。そして淡い色を塗ったカンバスにも無数の虫がへばりついていた。
梨優たちはパレットナイフでカンバスに付いた虫を剥がしたが、カンバスは汚れてしまい、濃い緑や茶色を使う林や森の絵に変更を余儀なくされた。しかも描き始めたのが遅れたために、帰る日までに完成せず、半乾きの絵を持って帰って来るのに苦労した。
梨優の合宿話を聞きながら、吾妻は終始クスクスと笑っていた。
「もう、笑い事じゃなくて、ホントに大変だったんだから」
「すみません…でも、くっくっくっ…」
涙を拭きながら笑っている。
「…梨優さんは、初めにどんな絵を描いていたのですか?」
「国道の脇から、まっすぐ伸びている道があったんです。その先に幾重にも山が見えて、一番遠い山は霞んで空に溶けていくみたいにきれいで、そこが描きたかったんです…」
吾妻はチェロを弾き始めた。山田耕筰の『この道』であった。