モッコウバラ 第七話
作:蒼馬要
翌朝、梨優は吾妻の家に行った。外から様子を見るだけのつもりだったが、吾妻が庭に出ていたので声をかけた。
「おはようございます」
「梨優さん…」
吾妻は深く溜息をついた。
「ずっと待っていましたが、来ませんでした…昨日、また来ると言っていたのですが…」
くたくたと庭に座り込んでしまった吾妻の傍に駆け寄り、肩に触れると身体が冷え切っていた。
梨優は牛乳を温めて吾妻に飲ませた。
「やっぱり、なつめは死んだのですね…」
吾妻はそう呟いてテーブルに飲み終えたカップを置くと立ちあがった。
「もうすぐコンサートがあるので、練習をしないと…」
梨優は吾妻の手を取った。
「こんな冷たい手じゃ…弾けないですよ…」
梨優は奥歯を噛み締め、涙を堪えながら、両手で吾妻の手を強く握り締めた。
「…梨優さんの手は…温かいですね…」
吾妻の手が温もりを取り戻すまで、梨優は黙ってその手を握り続けた。
月曜日に学校へ行き、教室前の廊下に置かれたベンチに座ってぼんやりしていると、登校してきた環が通りかかった。
「それは夢枕ね。梨優は死んだ人が生前親しかった人の夢の中に現れるって話、聞いたことない?」
「おばあちゃんが死んだ時に、お母さん夢に見たって」
「うん、そういうの。人って死ぬ時に、三人夢枕に立てるらしいんだ」
「三人?」
「相手が気付いてくれればの話だけどね。鈍感な人だとせっかく夢枕に立っても気付かないらしいわ」
「死んでも会いたい人の所に行けるの?」
環は頷く。
「どんなに遠くにいても?触れたりとか、感触もあるの?」
「あのね、感覚って、ものすごく曖昧なものなんだよ」
環は人差し指で自分こめかみを指した。
「全部脳が作り出していることなの」
「…わかんないよ…」
始業のベルが鳴った。
放課後、二人は部活をサボって学校の近くの公園に行った。
「チョコが美味しいなぁとか、空が抜けるように青くてきれいだとか、それって舌や目から入ってきた情報を、脳が感じ取っているの」
コンビニで買ったチョコレート菓子を食べながら、環は説明する。
「一々意識してはいないけど、何だってそう、全部脳がやっていることなの」
梨優は空を見上げる。
「それはお菓子や空や、実際に目の前に存在する対象に接しているから感じられることでしょ。でも、他の人たちには見えなかったり聞こえなかったりするものが、その本人にとってはありありと感じられるってこともある、それが幻覚なの。実際の感覚とは全然違うものみたいだけど、感じている本人にとっては限りなくリアルな感覚が得られているの」
「吾妻さんが会っていたのは、なつめさんの幻覚だったの…」
それに自分が聞いたなつめの声も、玄関にあったパンプスも…
「片桐なつめがその時、既に亡くなっていたのなら、やっぱり幻覚なんでしょうね」
「火曜日には、まだなつめさん死んでないよ。病院で昏睡状態だったって…」
「でもさ、イタリアの病院で昏睡状態の人が日本に来られると思う?」
「ううん…」
「だから、わたしは夢枕だと思うんだ」
なつめが最後に吾妻のところに来たのは木曜の夜で、その日なつめは亡くなっている。
「なつめさん、吾妻さんにまた来るからって言って帰って…そのまま消えちゃったんだよ…もし、なつめさんが亡くなったことをわたしが知らせなければ、なつめさんは今でも吾妻さんの元に会いに来れてたのかも知れないのに…」
梨優は罪悪感を感じていた。
「そうかなあ。わたしは、そうは思わない」
環は首を横に振った。
「片桐なつめは死ぬ前に、どうしても吾妻柊平に会いたかった。でもそれはお別れを言うために会いに来たんじゃない。ただ会いたかったから。吾妻柊平もずっと会いたいと望んでいたから、片桐なつめに会えたのよ。それで片桐なつめの想いは遂げられたんじゃないのかな」
婚約者や両親は自分の元に駆けつけてくれた。しかし吾妻とはもう会わないと約束していた。それでも、なつめが一番会いたかったのは吾妻だった…
梨優は環にもたれて少し泣いた。