モッコウバラ 第九話
作:蒼馬要
吾妻は片桐なつめが本当にこの家にやってきたかのように話す。治樹には信じられないことだが、確かに片桐なつめは吾妻の前に現れたのであろう。
「台風が近付いていましたから、そのまま帰すのは心配でした…彼女は僕と朝まで一緒に居ました」
吾妻はやはり片桐なつめを愛していたのだ。
「片桐さんがいらしたのは、月曜と火曜の夜ですか」
「いいえ、あなたと梨優さんがいらした前夜、木曜にも来ました…その日が最後です…」
木曜…片桐なつめが息を引き取った日だ。
「庭のモッコウバラは、片桐さんが植えられたのですか?」
「はい、一昨年。僕も仕事の都合で家を留守にしがちですから、庭の手入れは無理だと言ったのですが…丈夫な花だと店で教えられたそうで、毎年必ず見に来ると言っていました」
片桐なつめは死の間際にも約束を守ってこの家に来たのだろうか。
「萱嶋さんは今も週刊誌のカメラマンをなさっているのですか?」
「いいえ、十年前に独立して、広告写真の会社をやっています」
吾妻は意外そうな顔をした。
「今日伺ったのは、個人的な関心からです。奇遇ですが、梨優がお世話になっていることもありますから、改めて挨拶に来ました」
「そうですか…」
帰り際、治樹は吾妻に言った。
「あなたはやっぱり片桐さんを愛していらっしゃる。愛しているからこそ、身を引いたんでしょう。そして恋愛感情がもう無くなったのだと信じ込もうとした。そのためにあなたは片桐さんに嫉妬をしているのだと思うようになった」
吾妻は溜息をついた。
「萱嶋さん…どうしてそこまで…」
「僕は、あなたなんかよりもずっと片桐なつめに嫉妬している人を知っているからですよ」
吾妻は治樹の言葉に一瞬顔色を曇らせたが、いつもの内面を伺わせない表情に戻った。
玄関の外には梨優が立っていた。治樹が入って行くのを見てずっと待っていたのだ。
「吾妻さんに何の用?」
「個人的な事。梨優には関係無い」
治樹は家と反対の駅の方に歩き出す。
「…家に来ないの?」
「今日は吾妻さんに用があったから来たの」
駅の方に向かう治樹の後を梨優は自転車を曳いて付いてくる。
「コンビニに行くから、ついでに駅まで送ってあげるわよ」
「そう、そりゃどうも」
二人はしばらく黙ったまま歩いた。
「…お前、俺が亡くなった人や、悲しんでいる人にカメラを向けることに、何も感じないのかって聞いたよな?」
梨優は黙っていた。
「確かに俺は仕事や趣味で色んな所に色んなモノを撮りに行ってる。怖い思いや、後ろめたい気持ちになることだって数えきれないくらい味わってきた。でも撮らないで後悔することの方が俺にとってはずっと屈辱なんだよ」
「…撮られる人の気持ちはどうなのよ…」
治樹は先刻の吾妻となつめのことを思い出した。
「カメラを向けないのが思い遣りか?俺はカメラマンだからそうは思わない。目の前にある事実を撮るのに、被写体の気持ちを一々考え込んでいたら撮りそびれちまう」
治樹の言い分も分からなくはないのだ。ジャーナリストというのは皆そういう気概とプライドを持って仕事に携わっているのだろう。治樹の話を聞いていると、自分が現実から目を背けているだけの意気地無しなのかも知れないと悔しくなった。しかし治樹の態度はあまりにもデリカシーが無さ過ぎる。
「お兄ちゃん、そんなことしてたら、まともな死に方しないよ」
治樹は笑った。
「覚悟の上でござんす」
「もう、ホントに心配してるんだからっ!」
治樹は梨優の頭に手を載せた。
「ありがとな」
梨優はくすぐったくなって、プイとそっぽを向いた。
「そうだ、梨優、お前台風の晩、片桐なつめの声は聞いたけど、姿は見ていないんだろ?」
「うん、あと玄関にパンプスが脱いであったのを見て…」
「…そうか、じゃあな」
治樹は手を振ると、早足で駅への階段を降りていった。
「今度の土日、学園祭があるんです。わたし吾妻さんをモデルに描いた油絵を展示するんですよ」
十月の末の週末、梨優はツアーから帰ってきた吾妻を訪ねた。
「そうですか」
吾妻はにこにこ笑っている。
「学園祭が終わったら、その絵をコンクールにも出品するので、しばらく戻ってこないから…吾妻さんにも見て貰いたいんです。お忙しいとは思うんですけど…」
しどろもどろになりながら、言うべきことは言った。
「梨優さん」
「はい」
「僕は、目が悪いんです」
梨優はハッとして顔を上げた。吾妻がいつも薄い色のサングラスをかけていることを、別段不思議には思わなかった。
「子供の頃に海外で飲んだ薬の副作用で見えなくなりました」
吾妻はいつも梨優の顔を見ながら話をしていたし、家の中ではごく普通に動いていた。
「ここは祖父母の家で、日本に帰ってきてからは、ずっとこの家で暮らしていましたから、家の中にいる限りは目が見えなくても何も不自由はありません」
「…ごめんなさい…」
梨優は謝った。
「どうして謝るんです?」
「だってわたし、気付かないで失礼なことを言ってしまった…」
「いいえ、そんなことありません。僕は、梨優さんと会えるのをいつも楽しみにしているんです」
帰り道、近所に出来た百円均一ショップで、梨優は紙粘土を沢山買ってきた。
部屋で捏ねていると、治樹がやってきた。
「何してるの?」
「個人的な事。お兄ちゃんには関係無い」
治樹はしばらく粘土と格闘している梨優を見ていたが、
「お前さぁ、粘土だけでそんな複雑な姿勢のモデルを作るの無理だよ。土台にワイヤーか何かで芯を付けなきゃ。フィギュアじゃないんだから」
「もう、あっち行っててよっ!」
「へいへい」
梨優はすぐに針金を買いに行った。
梨優の描いた油絵は入選しなかった。
「素敵に描き過ぎたんじゃないの?」
環の愛ある辛口批評は当たっていた。美術の教師にも部活の先輩にもイラストみたいだと言われ、もっとリアルに描くように言われたが、梨優は頑として描き直さなかった。
「芸術に正しいとか間違いなんて無いと思うんだけどなあ…」
返ってきた絵と一緒に、粘土で作った塑像を持って吾妻の家に行った。
苦心して作った塑像を吾妻は注意深く触っている。
「絵に描いたのと同じポーズで作ってみたんです。初めて作ったから、思うようには出来なかったんですが…」
「ありがとうございます。これは部屋に飾らせてください。絵は梨優さんが持っていて下さい」
それから二人でコーヒーを飲みながら取り止めの無い話をした。
「…じゃあ、絵の方にはモッコウバラも描いてあるんですか?」
「先生や友達には薔薇をバックになんて、少女漫画みたいだって言われたんですけど、わたしが初めて吾妻さんを見掛けた時、モッコウバラの香りと一緒だったから、どうしても描き入れたかったんです」
吾妻は嬉しそうに頷いている。
「…なつめさんは、イヴォンヌ・ラビエールという薔薇がお好きだったそうですね」
「どうしてそれを?」
「写真になつめさんと必ず一緒に写っている白薔薇があって、叔父が教えてくれたんです」
梨優は治樹が薔薇の花に詳しいことを説明した。
「イヴォンヌ・ラビエールは昔この庭に咲いていた薔薇で、母が育てていました。母が亡くなってから二・三年は手入れをしなくても自然に咲いていましたが、やがて枯れてしまいました」
「なつめさんは御覧になったんですか?」
「初めて家に来た日に、何という名前か聞かれたので教えました」
なつめがイヴォンヌ・ラビエールを好きな理由が分かった。彼女の吾妻との思い出にあった薔薇なのだ。
イヴォンヌ・ラビエールは枯れてしまったが、なつめは再びこの庭にモッコウバラを植え、吾妻との思い出を作ろうとしていたのではないだろうか。