モッコウバラ 第十話

作:蒼馬要


 環の家の近所にある井の頭公園でお花見をしてきた梨優が帰ってくると、二月から中東に撮影旅行に行っていた治樹が家に遊びに来ていた。
 アメリカ軍がイラクを空爆して、国家元首が姿を消し、バグダッドが事実上陥落したと発表される数日前のことだ。
 治樹は完全なオフということもあり、髪も髭も伸び放題で撮影旅行に明け暮れていたらしい。戦場に近い国を巡っていたと聞いて、梨優は心配を通り越して怒ったが、当の治樹は“ちゃんと戻ってきたんだからいいじゃないか”と、どこ吹く風だった。
「ホントにろくな死に方しないからっ!」
 テーブルにドンと置いた鞄からデジカメがすべり出た。
 梨優はお年玉と貯金を合わせてこのカメラを買った。携帯電話を買うかどうかで最後まで迷ったが、携帯電話はまだしばらくは必要無いという答えを出した。
「お、お前いいモン持ってるじゃないか」
 治樹がカメラに手を伸ばしたので、慌てて掴んだ。
「汚い手で触んないで」
「汚くないよ。日に焼けただけだよ、ほら」
 手のひらを見せる。
「飛行機乗る前にちゃんと風呂に入ったし」
「…それまで何日入ってなかったのよ」
 治樹は指を折って数えている。
「ほらぁ、覚えてないくらい前なんでしょ?」
「いいから、プリントアウトしたの見せろよ」
「無いわよ、プリンタ持ってないんだもん」
「はぁ?デジカメ買ったら、プリンタも買うだろ?普通」
「予算が足らなかったのっ!テレビの画面で見られるし、写真屋さんでプリントできるからいいの」
「しょうがないな、うちのオフィスに持って来いよ。プリントしてやるから」
「ホント?」
「ああ、俺が留守の時は佐倉に言っとくから、パソコンのプリンタでよければ、いつでも使っていいよ」
「やったぁ、フフフ、持つべきものはカメラマンの叔父さまだわ」
 治樹は苦笑する。
「さっきまではバイ菌扱いしてたくせに…」

 四月の末、吾妻の家のモッコウバラが咲き始めた。
 吾妻はコンサートツアー中で留守だったが、梨優は毎日世話に行っていた。
「早く帰ってこないと散っちゃうのになぁ…」
 モッコウバラの匂いに包まれていると、この薔薇を植えたなつめもまだこの家を訪れていた一年前のことを思い出す。
「なつめさんは、何故モッコウバラを選んだのかな…」
 なつめの一番好きな薔薇は、この庭に咲いていたというイヴォンヌ・ラビエールで、モッコウバラとは白薔薇という共通点しかない。

 図書館で園芸関連の棚を探していると、花言葉の本があったので、薔薇の専門書と一緒に閲覧室に持ってきた。
 モッコウバラは中国原産の原種に近い薔薇で、棘の無い珍しい品種ということだった。
 一方、イヴォンヌ・ラビエールはフランスで作られたモダンローズで、この薔薇も棘が比較的少なく、育てやすい品種と書かれている。
「吾妻さんが触っても怪我をしないように、棘の無いモッコウバラを選んだのかな…」
 梨優は花言葉の本を開いた。普通の花は一種類で一つの花言葉しかないが、薔薇はその色によって花言葉が違う。赤は情熱、黄色は嫉妬といったものは梨優も知っていた。
「白い薔薇の花言葉…」
 梨優はその意味を知り溜息をついた。

 治樹が電話を掛けてきた。
「梨優、前に話した旧古河庭園に行かない?再来週の月曜日頃」
「えー、学校があるもん」
「夕方だよ。帰ってきてからでいいの」
「何で?」
「薔薇園のライトアップがあるんだ」
「へえ…」
 あまり興味無さげに受け答えしていると、
「…晩飯おごってやるから…」
 治樹は伝家の宝刀を抜いた。
「…行く」

 翌週末、梨優は帰宅した吾妻を訪ねた。
「吾妻さん、白い薔薇の花言葉って御存知ですか」
「いいえ、色によって違うのですか?」
「はい、赤い薔薇は情熱、黄色い薔薇は嫉妬とか、色々あるんです。イヴォンヌ・ラビエールもモッコウバラも白い薔薇なんです。…白い薔薇には、心からの尊敬という意味があるそうですよ」
「心からの尊敬…」
 吾妻は繰り返した。
「なつめさんは、吾妻さんのことをずっと、ずっと尊敬されていたのだと思います」
 返答をはぐらかすように、吾妻は何も言わずに微笑んだ。去年、なつめにプロポーズされていると打ち明けられた時も、こんな風に受け流してしまったのかも知れないと思った。
 なつめはそんな態度を自分の都合しか考えていないと言って、初めて本気で怒りをぶつけてきた。彼女のために良かれと信じていた判断は間違いだったのか。
 部屋は梨優が活けた咲き残りのモッコウバラの匂いで満ちていた。

 数日前、吾妻の家には治樹が来ていた。
「わたしはカメラマンなんで、自分で見たもの、写真に撮ったものしか信じないんです」
 治樹は中東に行く前にイタリアに寄り、なつめのホテルでの通話記録を手に入れていた。
「片桐さんが最後に携帯で電話をかけた相手は、フランスのニースにいた婚約者だったそうですが、ホテルを発つ直前に部屋の電話から日本に掛けていました。以前話した、片桐さんに嫉妬していた人にです」
「なつめとは顔見知りだったのですか…」
「片桐さんは友人だと信じていたでしょう。庭のモッコウバラも今は梨優が世話をしているようですが、最近まで世話をしていたのはその人です。直接確かめました…片桐さんが付けている香水の銘柄を知っていて、あなたのことを柊平と呼んでいることも知っていると言えば…分かりますか」
 吾妻は見えない目を見開いた。
「佐倉…美歌ちゃん…ですね…」
 佐倉美歌は片桐なつめの一年後輩で、なつめと同じ声楽を専攻していた。歌唱力や表現力においてもなつめに並び、引けを取ることは無かったが、コンクールではどうしてもなつめより上位になることが出来なかった。
 美歌と吾妻が知り合ったのは二十年前。チャリティーコンサートで独唱をした美歌のバックでチェロを弾いていたのが高校生の吾妻だった。小学生だった美歌は当時から吾妻にほのかな憧憬の想いを抱いていたが、吾妻にとって美歌は妹のような存在だった。
「何故、あなたが美歌ちゃんのことをご存知なんですか」
「美歌はわたしのオフィスで働いています」
 大学生になった美歌は吾妻となつめが恋人であることを知った。歌の実力だけでなく、恋愛でもなつめに叶わないのだと知った美歌は、当時なつめのことを追い駆けていた治樹に吾妻の存在を教えてしまった。治樹はそのお蔭でスクープをものにしたのだ。
 二人の関係が破局した遠因が自分にあると感じた美歌は、他に様々な事情もあり、歌手の道を諦めた。そして独立を考えていた治樹と一緒に会社を起こした。
「あの日、台風が近付いていると聞いた片桐さんから、薔薇の様子を見に行ってくれないかと頼まれたそうです。美歌は仕事帰りにここに来た。あなたが出てきた時には、本当に驚いたと言っていました」
 美歌は咄嗟になつめになりすましたのだ。
「片桐さんが事故に遭ったという連絡は翌日、美歌の元にも入りました。美歌はそのことを伝えるために、火曜日の夜またここを訪れた。しかしあなたの顔を見て、結局言い出せないまま翌朝帰ったそうです」
 梨優が見た玄関にあったパンプスと部屋から聞こえてきた声は美歌のものだった。
「ただ、一つだけ分からないことがある。あなたは片桐さんが木曜の晩にも来たと言う。しかしその晩、美歌は僕と一緒にいたんです」
 そう言われ、吾妻は二人の関係に気付いた。


最終話につづく