モッコウバラ 最終話
作:蒼馬要
木曜の夜に訪れたなつめは、チェロに合わせて歌を歌わせてくれとせがみ、プッチーニのオペラ、『ラ・ボエーム』の貧しい詩人のロドルフォと瀕死の恋人ミミによる二重唱『みんな行ってしまったのね』を歌い始めた。
はなしたいことがたくさんあるの
わたしが初めて入って来た時のこと覚えてる?
吾妻はなつめの歌に呼応するようにチェロを弾いた。
眠くなったわ…
呟くように歌い終えると、なつめは吾妻の膝にそっと寄り添い、そのまま眠ってしまった。
昼間の仕事で疲れているのだろうと思った吾妻はなつめをソファに寝かせ、ヘッドフォンをしてチェロを弾き続けた。
朝、いつの間にか眠り込んでいた吾妻が目を覚ますと、なつめはもういなかった。また来るわ、という囁き声だけが耳に残っていた。
「今日はこれをお渡ししようと思って来たんです。片桐さんがトリノのレッジオ劇場で最後に出演した舞台のCDです」
デッキにディスクを入れると、ロドルフォのアリアが流れてきた。
なんと冷たい手、暖めさせてください…
「梨優は片桐さんがあなたの夢枕に立ったのだと信じています…」
そう言って治樹が吾妻を見ると、頬を涙が伝っていた。
「萱嶋さん、あなたが自分の目で見たものしか信じないように、わたしも自分の耳で聞いたものを信じようと思います」
梨優も窓の外の薔薇を眺めながら考えていた。
あの薔薇は吾妻さんとなつめさんのものなのだ。どんなに頑張っても、自分はなつめの代わりにはなれないのだと思うと、鼻の奥がツンとして涙がこぼれそうになった。
「梨優さん?」
梨優が黙り込んでしまったのに気付いた吾妻が声を掛ける。
「わたし、来週旧古河庭園に行くんです」
「西ケ原の?」
以前、学生時代の友人の結婚式が旧古河庭園の洋館で行なわれ、招待された吾妻はチェロを弾いた。あの時弾いたのは何の曲だったろう…
「はい、薔薇が沢山咲いている西洋庭園でライトアップがあるんですって」
梨優は努めて明るい声で答えた。
吾妻は弓を構えると、チェロを弾き始めた。
結婚式で弾いた、エルガーの『愛の挨拶』がゆったりと流れた。