モッコウバラ 第一話
作:蒼馬要
二〇〇二年四月、梨優は都立高校に進学した。中学校へは徒歩で通っていたが、高校はかなり遠くなり、電車とバスを乗り継ぐことになった。最寄の駅まで、晴れの日は自転車に乗って通った。
五月になって最初の週の朝、自転車を漕いでいると、いつも通る道の曲がり角で何かの花の甘い匂いがスッと流れてきて鼻腔をくすぐった。
梨優は足をついて辺りを見回してみたが、辺りにそれらしき花は見つからず、風向きも変わってしまい、匂いはすぐに消えてしまった。
夕方、家への帰り道、朝花の匂いがした辺りにさしかかった。鼻から深く息を吸い込む前から今度は甘い匂いが漂っている。やはりこの角の家から匂ってくるらしいのだが、一メートルくらいのブロック塀の上のフェンス越しに中を覗いても、砂利を敷いた小さな庭があるだけだった。庭の奥に目をやると、やや開いたカーテンの間から室内の様子が見えた。
男が薄暗い部屋でチェロを弾いている。外灯も点り始めそうな時刻であったが、男は演奏に集中しているせいか目を閉じたまま、電気も点けずに激しく弓を動かしている。梨優が特に興味を持ったのは弾いているチェロの形状だった。そのチェロは木製の物と違って胴体の部分、膝で挟む枠しか無く、正面からだと弦が張られたネックだけにしか見えなかった。男がヘッドフォンをして弾いているので、それが電子楽器であるということは梨優にも分かった。エレキギターやエレキベースがあるのだから、エレキのチェロがあっても別におかしくないか…梨優はそんなことを考えながら家に帰った。
翌朝、梨優はいつもよりも少し早く家を出た。
自転車を曳きながら、その家の様子を探るようにゆっくりと通ると、昨日チェロを弾いていた男が、ホースで庭に水を撒いていた。
「おはようございますっ」
男と目が合ったような気がして、梨優は慌てて挨拶をした。
「…おはよう」
男は突然声を掛けられて、やや驚いた様子だったが、すぐに挨拶を返すと微笑んだ。梨優は自分が男の家を覗いていたことを知られてしまったことが急に恥かしくなり、お辞儀をすると小走りで駅に向った。
その日の夕方、自転車を曳きながら帰ってくると、男が窓辺で椅子に腰をおろして外を見ていた。
「こんばんは…」
梨優が挨拶だけして通り過ぎようとすると、呼び止められた。
「ねえ、今朝…君だよね?」
「…はい」
梨優が振り返って答えると、男は庭に出てきて笑っている。
「自転車の軋む音で分かった、ドの♯」
ドのシャープ?あ、音階のことか…
「音楽家だから、耳がいいんですね…」
言い掛けてしまったと思った。家の中を覗いていたと自白してしまったようなものだ。
「あの…昨日からこの辺りでいい匂いがしていたので、どこからだろうって気になって…」
消え入りそうな声で言い訳をした。
「その時にチェロを弾かれているのを見たものですから…あれ、エレキチェロっていうんですか?」
男は軽く首を横に振った。
「サイレントチェロというものです。面白い形をしていたでしょう」
「はい、普通のチェロと違って、胴の部分が無いんですね」
「そう、アンプで音を増幅させるから、胴体が必要無いのはエレキギターと同じなんですよ」
今日は昨日よりもまだ時間が早くて、部屋の電気は点いていなかったが部屋の奥にチェロが入っているらしいケースが幾つか並んでいるのが見え、サイレンとチェロと一緒に普通のチェロがスタンドに立て掛けられているのも見えた。
「普通のチェロは弾かれないんですか?」
「練習部屋は防音にしてあるのですが、なにぶん家が古いもので普通のチェロを弾くと音が外に漏れてしまうんです。昔は昼間だったら少しくらい音がしても苦情が来ることは無かったのですが、耳障りに感じられる人もいるようです。あのチェロは普通のチェロよりもずっと音量が低いので、気兼ねなく弾けるんです」
男は俯いて軽く溜息をついて微笑む。
「そうなんですか…」
「いい匂いというのは、何だろう…うちの庭からですか?」
「はい、お花の匂いです…」
それはフェンスの内側に、朝顔の鉢のような丸い輪の付いた支柱に絡んで植わっている株に、こぼれんばかりに咲いた白い花の香りだった。道路からは門柱や塀の下半分のブロックに隠れていて見えなかったのだ。
庭に入れてもらった梨優は、花枝をそっと持ち上げて、改めて花の匂いを嗅いだ。
「この匂いだったんですね。咲き始めると毎日嗅いでいるから、言われないと気付かなかった…」
男も梨優の横でしゃがみこんで匂いを嗅いでいる。
「モッコウバラといいます」
「これ、薔薇ですか?棘が全然無いのに…」
葉の形も細長く、薔薇のイメージとは程遠かったが、匂いは確かに薔薇の花と同じ気がする。
「僕もあまり詳しくはないのですが、薔薇だそうですよ」
「ホントにいい匂い。香水みたい」
梨優がうっとりして匂いをかいでいると、男は枝を摘まんだ。
「一枝あげましょう」
「そんな、せっかく咲いているのに」
「沢山あるから。それに…」
男は無造作に外側に伸びている花枝を掴むとぷちんと千切った。
「褒めてくれたお礼です。どうぞ」
男は枝を梨優に手渡した。
「ありがとうございます」
「大概は家でチェロを弾いています。気が向いたらまた遊びに来てください」
帰り際、表札を探したが、玄関にも門柱にも見つからなかった。郵便受けも見当たらない。
「今度来た時に聞けばいいか…」
「梨優」
玄関先で植木に水をやっていると、背後から声を掛けられた。
「お兄ちゃんか、ああびっくりした」
梨優の母の弟、叔父の萱嶋治樹である。治樹は広告カメラマンをしていて、仕事で海外に行く機会が多い。その前になると、晩御飯を食べにやってくるのであった。
「驚かすつもりは無かったんだけど…」
「うん、わたしがぼんやりしてた」
梨優は顔をほころばせている。
「どうかした?」
治樹が怪訝そうに聞くと、返っておどけた表情になって首を横に振った。
「こんばんはー」
玄関に入ると、下駄箱の上に置かれた花瓶にモッコウバラの枝が活けてあった。治樹は花を一目見て、
「あれ、珍しいね、モッコウバラの切花なんて。花屋じゃ売ってないだろ?」
と、指差した。梨優は治樹が花の名前を言い当てたのが少し悔しかった。
「どっかからカッパしてきたんか?」
治樹は花枝に触れて揺らしている。
「違うわよ、貰ったの」
「梨優が?」
「まあね…いい匂いですねって言ったら、そのお礼に貰ったの」
「へえ、誰に?近所の人?」
「もう、いいでしょ、一々うるさい」
詮索する治樹を煙たそうに睨むと、治樹は梨優の頭を軽く叩いた。
「何かあるな」
「別に」
翌日、男の家の窓にはカーテンが掛かり、夕方になっても明かりが点かず、どうやら留守のようだった。
不在の日が数日続いた夕方、その日は土曜日で、梨優は図書館に勉強しに行った帰りだった。
少し開いた窓に明かりが灯り、カーテンが風に揺れている。
「いる…」
嬉しくなって玄関の方に歩いて行こうとすると、家の中から話し声が漏れ聞こえてきた。
「もう、来ないわ…」
女の人の声だ。
「その方がいいだろう…君のためにも…」
あの人の声だ。でも、何となく様子が変だ。
「君の荷物はいつでも持って行っていい」
まるで別れ話ではないか。梨優は聞いてはいけない話を聞いてしまったと直感した。しかし胸が弾んでついその場に立ち止まってしまった。
「いつだってそう、言い訳はよして」
女の人の声が近付いて来て、カーテンに人影が映る。
「言い訳?」
「わたしのためって言いながら、あなたはいつも自分に都合のいいことしか受け入れようとしないのよ」
カーテンが開いて女の人の顔が見えた。年は幾つくらいだろうか、はっきりした年齢は分からないが二十代半ば以上、きれいな女の人だ。
「…僕にどうしろと?」
街灯の明かりの下に立ちすくんでいた梨優と目が合い、何か言いかけようとしていた女の人は表情を硬くした。
「なつめ」
女の人は慌てて窓を閉じ鍵を掛けると、カーテンを引いてしまった。
梨優もきまりが悪くなって、急いでその場から離れた。
…なつめ…あの女の人の名前だろうか…