モッコウバラ 第二話

作:蒼馬要


 「橋占っていう占いがあってね…」
 友人の環は梨優にそう話し始めた。
 環とは入試会場となった教室で隣りの席に座ったことがきっかけで親しくなった。梨優は美術科を選択し、環は音楽科を選択したのでクラスは別々になったが、何となく気が合い、一緒に昼食を取ったり、休み時間や放課後は一緒にいることが多かった。
 詳しくは説明しなかったが、別れ話らしき会話を立ち聞きしてしまったことを環に話すと、環はその橋占の話を始めたのだ。
「橋は沢山の人が行き交う所でしょ。話をしながら通り過ぎる人もいるじゃない。昔の人は橋の袂に立って耳を澄ませて、聞き取れた言葉の内容で吉凶を占っていたの」
「それで?」
「梨優が話し声を聞いたのは通りかかった数秒のことでしょ?」
 数秒ではない、本当はもっと長い間立ち聞きしてしまった。
「聞いた会話だって断片に過ぎないものなんだから、気にすることないのよ」

 週末の午後、梨優は男の家を訪ねた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「この前はお花をありがとうございました」
 梨優は挨拶をしたあと、しばらくもじもじとしていた。
「どうしました?」
「あの…もし、迷惑じゃなかったら、チェロを弾いているところを見せてくれませんか?」
 男は首を傾げる。
「わたし高校で美術を専攻しているんです。静物画や風景画はわりと自信があるんですけど、人物画が苦手なんです。先生や先輩から、とにかく何枚もデッサンをするのが上手くなるコツだって言われて、でも、なかなか…それで、楽器を演奏している人のスケッチを描いてみたいんです…」
 家で繰り返し練習してきた台詞を一気に説明した。
 楽器を演奏している人のスケッチだったら、環に頼んでもいいことだった。環はピアノが弾け、トロンボーンが吹ける。頼めばいくらでも描かせてくれるだろう。しかし、梨優は先日のことがずっと気に掛かっていた。もし男があの女の人と別れてしまったのだとしたら、落ち込んでいるかも知れない。おこがましいとは思ったが、元気付けてあげられないだろうかと考えた。
「いいですよ、どうぞ」
 男は梨優が想像していたほど、落ち込んでいるようには見えなかった。初めて会った時と同じようににっこり微笑んで家の中に招き入れてくれた。
 通された練習部屋には中央にスツールが一つ置かれ、サイレントチェロがスタンドに立て掛けられている。
 梨優は手提げバッグの中からクロッキー帖とペンケースを取り出し、手提げを床に敷き、その上に座ってクロッキー帖の新しいページを開いた。
「僕は動かない方がいいですか?」
 スツールに腰掛けた男はチェロを抱える。
「いえ、弾いててください」
 後になって考えれば、随分と失礼なことを言ったと思うが、梨優はそう言って、ペンケースから鉛筆を出して握った。
「では、始めましょう」
 男はヘッドフォンのコードを抜き、アンプにコードを繋げると、チェロの電源を入れ、弦に当てた弓をゆっくりと動かし始めた。弦から直接聞こえてくる音はごく小さいもので、スピーカーの方からきれいな音色が流れてきた。曲はサン=サーンスの『白鳥』

 しばらくして、男は演奏の手を休めると立ち上がった。
「少し休憩しましょう」
「あ、いえ、わたしは全然…」
「僕が疲れました」
 梨優は勘違いしたことが恥かしくて真っ赤になった。
「…すみません、気付かなくて…」
 男は隣りのキッチンに行き、冷蔵庫から缶コーヒーを二本持って戻ってきた。
「いただきます」
「どうですか?」
「やっぱりうまく描けないです…あ、見ないでくださいっ!」
 コーヒーを手渡された時に覗き込まれそうになったので、梨優はクロッキー帖を胸で隠した。
「ははは」
 男はスツールに座り、コーヒーを飲み始めた。梨優は弾いていた曲のことを話し始めた。
「最初の曲はサン=サーンスの『白鳥』。その次がラフマニノフの『ヴォカリーズ』ですよね」
 男は頷いている。
「クラシック、好きですか?」
「えと…、そういうわけでは…」
 このまま話していると込み入った内容に発展しそうな気がして梨優は慌てて否定した。
「でも、ラフマニノフを知っているし」
「深夜にテレビで映画の放送をしてて、そのテーマ曲なんです」
「じゃあ映画が好きなんですね」
「はい、テレビやビデオばかりですけど…三曲目に弾いたのは何ていうタイトルですか?」
「フォーレの『夢のあとに』という曲です。その後に弾いたのはバッハの『平均律クラビーア』のプレリュード」
 梨優はクロッキー帖の隅に曲のタイトルを走り書きした。今度レンタルビデオ店に行ったらCDコーナーで探してみようと思った。
「質問、いいですか?」
「はい」
「どうしてチェリストになろうと思ったんですか?」
「両親の影響が一番大きいですね」
 同じオーケストラで知り合ったバイオリニストの父親とピアニストの母親の影響で、物心付く前から音楽と楽器に触れていたため、将来は音楽家になるのだと早くから自覚していたという。
「宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』って知っていますか?」
「はい、小学生の時に読書感想文を書くので読みました」
「子供の頃に僕もあの話を読んで聞かされてね、セロというのはチェロのことだと知った。初めはあまり巧くセロを弾けないゴーシュが、毎晩一生懸命練習してうまくなっていく物語が大好きだった。何度も何度も読んでもらって、すっかり覚えてしまった」
 男は目を閉じて話す。
「自分も努力して練習を続ければ、ゴーシュのようなセロ弾きになれるかもしれないと思った。チェロを選んだのはそんなことが理由かな」
 梨優は『セロ弾きのゴーシュ』をもう一度読んでみようと思った。
「もう少しだけいいですか?」
「はい」
 それから男が二曲パッフェルベルの『カノン』と、シューマンの『トロイメライ』を弾く間、梨優はデッサンを続けた。

 「お役に立てましたか?」
 帰りは玄関まで送ってもらった。
「はい、ありがとうございました…あの、わたし、水野梨優といいます」
「梨優さん」
「ええと…お名前…教えてください…表札が無かったから…」
「ああ、そうでしたね。吾妻です」
「…吾妻さん、ありがとうございました」
 梨優はもう一度頭を下げて家を後にした。


第三話につづく