モッコウバラ 第三話

作:蒼馬要


 それから何日か経って、梨優は環に誘われ新宿の小劇場に芝居を観に行った。帰りに二人は駅ビル内のCDショップに寄った。梨優がスタスタとクラシックコーナーに歩いていくと、
「梨優がクラシックなんて珍しい」
 環が目を丸くしている。
「いいでしょ、別に。絵を描きながら聞くの」
 クロッキー帖に書いた曲のタイトルは頭の中に入っていた。フォーレとバッハ。作曲家別に並んだCDの中から、フォーレのCDを一枚取り出した。
「『夢のあとに』…これだ…」
 バッハのCDは種類があまりに多く、また予算も一枚分しかなかったので、とりあえずフォーレのCDを持ってレジに向った。
 途中、日本人アーティストのコーナーを横切ろうとして、何気なくそこに張られていたポスターに目を遣って、梨優はドキリとした。ジャケットと同じ写真の大きなポスターに映っている横顔に見覚えがあった。
「Shuhei Agatsuma…吾妻柊平…」
 ジャズのコーナーにいた環は、ポスターを見詰めている梨優に気付いて横に来た。
「この人、最近話題のアーティストらしいよ。ぴあに出てた」
「え…そうなの?どんな風に?」
「何でもね、コンサート会場にはビデオやカメラもなんだけど、録音機器を一切持ち込ませない人なんだって。マスコミの取材も極端に抑えてて、このアルバムも知り合いの音楽評論家が何年も頼み続けて、やっとスタジオ録音をして、リリースまで漕ぎつけたんだって」
「…どうして録音させないの?」
「わたしもコンサートを聞きに行ったことは無いから分からないけど、ライブ感を大事にしているとか、そういうことなんじゃない?」
 環の口癖は“ライブ感”で芝居やコンサートの話になると、会話の端々によく出てくる。
「お芝居だってテレビで中継を見るのと、劇場で生で観るのとは全然違うでしょ」
「うん…そうね…」
 CDのタイトルは『プレリュード〜バッハ無伴奏チェロ組曲集』。
 梨優はフォーレのCDを返して、このCDを買った。

 吾妻のCDを聞きながら、梨優はうとうとしてしまった。最初のプレリュードは聞いたことのある曲だったが、それ以降の曲はゆったりとした演奏のものが多く、チェロの甘い低音を聞いていると自然と瞼が重くなってくる。技巧的なことは分からなかったが、吾妻の家で聞かせてもらった時の演奏に比べると、何となく味気無いように感じてしまう。
「どうしてだろう…」
 あの時はデッサンに夢中だったからだろうか…梨優はクロッキー帖を広げ、描いた吾妻の姿を眺めた。

 「演奏会の時にはお客さんのために弾いているのだという実感があるからだと思います。聞いてくれている人たちの集中力を一身に浴びて演奏するのは緊張感がある。いい演奏をしなければと気持ちが引き締まるんです」
 翌日、梨優は吾妻の家に行き、CDを買ったことを話した。
「スタジオで弾いている時には、隣りの部屋でスタッフの人たちが聞いてくれているけれど、自分の前にはマイクがただ一本あるだけでしょう。本当はそういうことじゃいけないと思うんですがね。CD、退屈だった?」
 吾妻はそう言って笑った。
「あ、いえ、退屈というか…チェロの音を聞いていると、心地好いんだと思います」
「チェロの音域は人の話し声と同じですからね」
 ああ、そうなのかと梨優は頷いた。
「吾妻さんの弾くチェロは力強くて、優しい音だから、わたし大好きです」
「ありがとう」
 お礼を言われて、梨優は胸がときめいた。しかし微笑んだ後にふと寂しそうな表情を浮かべる吾妻の横顔を見ると、なつめと呼ばれていた女の人のことが思い出された。吾妻の恋人だったのだろうか。来た時にはよくは分からなかったが、別れたのなら表には出さなくてもやはり辛い思いをしているのではないだろうか。
「来週から地方公演があります」
「地方公演…」
「アルバムを出したのを機に、レコード会社の方で全国ツアーを企画してくれたのです。なので、一月ほど留守にします」
 帰り際、門柱の陰のモッコウバラを見ると、少し葉が萎れていた。
「吾妻さん、薔薇にお水あげてますか?」
「今朝やりましたけど…」
「ずっと天気が続いているから、たっぷりあげないと…」
 梨優は庭のホースを伸ばしてきて薔薇に水をやった。
「ねえ、吾妻さんが留守の間、わたしが薔薇のお世話をしましょうか」
 吾妻の家には、週末ハウスキーパーの人がやってくる。部屋の掃除と一週間分の買い物をして帰るのだが、コンサートツアーなどで吾妻が長く家を留守にする間は、休んでもらっているということだった。
「そうしてくれると助かりますが、梨優さんも忙しいでしょう?」
「ううん、近所だもん。学校のある日は朝か夕方に必ず寄りますから」
 梨優は薔薇の世話を半ば強引に買って出てしまった。吾妻は梨優が庭に入るだけだからと断ったが、念の為にと、家の合鍵を梨優に貸してくれた。


第四話につづく