モッコウバラ 第五話
作:蒼馬要
九月の末、ベッドの中で吾妻は門扉を開けて入ってくる人の気配に目を覚ました。
ここ数日、大型の台風二十一号が接近しているという予報が繰り返しニュースで流されていた。戦後最大規模の台風で、関東地方も戸締まりなどには注意するようにと呼び掛けられていたので、普段は滅多に締めない二階の雨戸も夕方から締めてあり、いつもより早めに横になっていた。
強風で雨戸の軋む音が気になり、なかなか寝付けずにいたが、その合間に微かな足音が聞こえた。来客の時も、練習部屋以外の場所にいれば、門扉を開ける音で人が来たことに気付く。
足音は玄関ではなく、庭の方へと周ったらしく、庇の下に敷かれた砂利を踏む音が聞こえる。
「…梨優さんかな…」
モッコウバラを心配して来てくれたのだろうか、しかしもう随分遅い。
ベッドから起きあがり、階段を降りて庭に面した練習部屋の窓を開け、雨戸を開いた。強く生温かい風がサッと部屋の中に吹き込んできた。雨はまだ降っていない。
「柊平…」
庭に佇んでいた人影はそう呟いた。吾妻を柊平と呼ぶのはなつめだけである。
「なつめ…?…どうしたの…」
なつめは沈んだ声で返答した。
「…薔薇が…気になって…」
吾妻は裸足のまま庭に下りた。足の裏が砂利で痛んだが、構わず歩を進めた。
「柊平…」
吾妻は伸ばした腕の中に、飛び込んできた身体を抱き締めた。
翌朝、梨優はモッコウバラの様子を見るために少し早く家を出た。
練習部屋の雨戸が少し開き、窓も開いていたので覗くと、パジャマ姿の吾妻が部屋の隅でスツールにもたれて蹲っていた。
「吾妻さん?」
梨優の声に気が付いて顔をあげたが、ぼんやりとしている。
「どうしたのですか?」
庭から部屋に上がった梨優は吾妻を椅子に座らせた。
「何でもない…ちょっと…気分が悪くなっただけだから…もう、何ともないから…」
「台風が近づいてるから、雨戸は締めておいた方がいいですよ」
「梨優さん、これから学校?」
「はい、電車やバスが止まれば休めるんだけど…薔薇も大丈夫みたいですね」
支柱と茎が紐でしっかりと結んである。
「梨優さんも気を付けて」
授業中、梨優は吾妻のことを考えていた。何だかひどく憔悴していて様子が変だった。
昼になって、風はさらに強くなった。午後には一番台風が接近しているのか、暴風雨で学校に閉じ込められてしまった。
放課後、激しい雨が窓に打ち付ける美術室で、部の仲間と文化祭で展示する絵を描いていると、環がやって来た。
「あれ、帰ったんじゃないの?」
「これじゃしばらく帰れないよ」
「そうね…」
環は椅子を持ってきて、梨優の席の後ろに座る。
「この絵…」
梨優はチェロを弾く吾妻の絵を描いていた。
「へえ、近所に住んでるんだ」
「通学路沿い」
「ふふ、そこまで聞いてないけど…」
学食の自販機でジュースを買って、飲みながら話をした。
「そっか」
「何?」
「ん、梨優は吾妻柊平に恋しているんだ」
飲んでいたジュースをこぼしそうになり、うろたえる梨優の様子を見て環はニヤニヤ笑っている。
「ほら、図星だ」
「そ、そんなんじゃないって…」
「わたしさ、絵は描けないけど、好きな人をイメージして曲を作ったりすることはあるよ」
「好きな人をイメージして作曲…?」
「厳密に言えば好きな人が作りそうな感じの曲を作るんだけどね。ほら、その曲を作っている間は、確実に好きな人のことだけを考えていられるわけじゃない?」
環はピアノを弾く仕草と一緒にハミングを歌う。
「それ、環が作った曲?」
「違う違う、ジョージ・ガーシュウィンって知らない?『ラプソディ・イン・ブルー』って曲よ」
「環の好きな人って、ジョージ・ガーシュウィン?」
「そう、心の師匠、永遠の恋人…」
「でも、その人もう死んじゃった人でしょ?」
「生きていようと、死んでいようと、好きな人に変わりはないもん」
「そうかなあ…」
「…で、もう告ったの?」
梨優は首を横に振る。
「ええ、何で?ほとんど毎日会ってるんでしょ?いくらでもチャンスがあるんじゃない」
「だって、吾妻さんて三十過ぎだよ。それに…」
恋人らしい人がいるし…と、言いそうになって口をつぐんだ。
「年の差だって関係無いと思うけど」
CDのリーフレットに吾妻のプロフィールが載っていた。生まれ年だけだったが、今年で三十六になる。二十も年上なのだ。
七時過ぎにようやく風雨がおさまり、梨優はバスに乗って帰ってきた。八時過ぎに駅に着き、駅前の公衆電話から家に連絡をして、自転車を漕いだ。
朝の吾妻の様子が気掛かりだったのと、自分もお腹が空いていたので、コンビニに寄って缶コーヒーとパンを買った。
雨戸は一階も二階も締め切ってある。玄関のドアをノックしたが返事が無い。留守ではないはずだが、試しにノブを回すと無用心なことに鍵が開いている。
「吾妻さん…」
小さな声で呼びかけてみた。家の中は電気が消えてひっそりと静まりかえっている。
「失礼します…」
梨優は靴を脱いで家に上がり、台所に行ってパンと缶コーヒーの入った袋をテーブルの上に置いた。練習部屋のドアを開けたが吾妻はいない。トイレにもいない。
「上にいるのかな…」
二階には行った事が無かったが、もし具合が悪くて寝込んでいるのだとしたら心配だ。
絨毯の敷かれた階段を半分程上りかけて、梨優はハッとした。二階の奥の部屋から、ボソボソと人の話し声が聞こえる。誰かと一緒にいる…話している…ドキドキする鼓動の合間に、吾妻の声がはっきりと聞こえた。
「…なつめ…」
なつめって…
「…柊平…」
女の人の甘えるような囁き声が聞こえた。
梨優は気付かれないように階段を降りた。台所に置いたコンビニ袋をそっと抱え、玄関で靴を履こうとすると、足に他の靴が当たって転がった。そっとドアを開けると、街灯の明かりでそれが赤いパンプスだと分かった。いつ来たのだろう。今夜?…今朝は庭から上がったから気が付かなかったけれど、もしかして昨日から来ていたのだろうか…
梨優は外に出てドアを閉め、借りていた合鍵で鍵をかけた。
自転車のカゴに鞄とコンビニ袋を入れて、二階の窓を見上げると、雨戸の隙間から部屋の明かりが細く漏れていた。…仲直り…したんだ…。そう思ったら急に目頭が熱くなって、涙が溢れてきた。
その晩から梨優は熱を出して、三日間学校を休んだ。
木曜日、病院に行くので吾妻の家の前を通ったが、雨戸が締まったままだったので、そのまま通り過ぎた。