モッコウバラ 第六話

作:蒼馬要


 金曜日、体調はほとんど良くなっていたが、精神的にはまだ落ち込んでいた。朝、環から電話があったが、結局休んだ本当の理由は打ち明けることが出来ず、部屋の中でぼんやりとすごしていた。
 夕方、リビングのソファーに座って、見るとはなしにテレビを見ていると、叔父の治樹がやって来た。
「風邪引いたんだってな」
「うん…」
「ほれ、お見舞い」
 振り返ると抱えきれないほどの大量の花束を渡された。
「どうしたの、こんなに」
「撮影で使ったんだ。終わったら捨てるっていうからさ、まだ萎れてないのをスタッフで分けたの。来週から俺アメリカで仕事だから、家には置いとけないし、だから持ってきた」
 寄せ集めたような色とりどりの薔薇の花が無造作にビニール紐で束ねられてある。
「梨優ちゃん、テレビ見ながらでいいから、お花活けておいて」
 母が花瓶と鋏を持ってくる。
「はーい…」
 古新聞をテーブルの上に広げて、花を選別し始めた。
「棘、全部取ってあるんだね」
「そうだな、花屋で売ってるのは大概取ってあるよ。その方が扱い易いからね。だから痛むのも早いんだけど」
「ふーん」
「撮影の間は切花用の延命剤を入れて持たせるから、くたっとなることはないんだけど、色はどんどん褪せていくから、とにかく時間との勝負ってとこ」
「枝に咲いているのが一番きれいなんだね」
「ああ、五月の薔薇園はいいぞ」
「薔薇園?」
「そうだな、この近くだったら西ケ原の旧古河庭園かな。西洋庭園の方は色んな種類の薔薇が植わっているんだ。満開になると花の匂いで噎せ返りそうになるんだぞ」
 治樹は花、特に薔薇に詳しい。梨優がまだ小さい頃から、仕事とは別に趣味で薔薇の花を撮るために旅に行っている。
「五月に来た時、玄関に活けてあった、あのモッコウバラも植えられてるよ。モッコウバラは一季咲きだから来年にならないと花が見られないけど、冬になるまで何度も繰り返し咲く品種もあるから、いつ行っても何かしら咲いてるんだ」
「…そう…」
 モッコウバラ…梨優は吾妻のことを思い出してしまった。台風でたっぷり雨が降ったから、しばらくは水遣りに行かなくてもいいし、あのなつめという恋人もいるだろうから、ただ遊びに行くというのでも抵抗がある。
「元気出せよ」
 治樹は快復しろという意味で言ったのだが、梨優は失恋したのを慰められたように聞こえて、思わず顔が引き攣った。堪えていた感情が溢れ出てしまった。
「う、うっ、ううっ…」
 突然泣きじゃくりだした梨優に、治樹も母も慌てた。
「どうしたの、梨優、苦しいの?」
「うう…ううっ、うぐ…」
 テレビではちょうど夕方のニュース番組を放送していて、若い女子アナが甲高い声で芸能ニュースを紹介していた。
「…訃報です。オペラ歌手の片桐なつめさんが、月曜日に公演先のイタリア、トリノ郊外で交通事故に遭い、昨日亡くなっていたことが分かりました。三十二歳でした。…片桐さんは十年前東京藝術大学音楽学部の声楽科を主席で卒業した後…」
 涙を拭いながら、梨優はテレビの画面にくぎ付けになった。
「主に欧米各国で活動しており…日本でも毎年五月に公演を行なっていました…」
 テレビに映っている写真の顔は、吾妻の家で見たあのなつめと呼ばれていた女性だった。
「…ご遺体は自宅のあるニューヨークに運ばれ…」
 梨優は立ち上がって二階の部屋へ駆けて行った。
「梨優!」
 ジャージに着替えた梨優は玄関を飛び出した。

 「どこに行くんだよ?」
 後を追ってきた治樹は梨優の前に回り道を遮った。
「…お兄ちゃん、真面目に聞いてくれる?」
 真剣な梨優の顔に治樹も思わず頷いた。
「わたし、あの人を見たの」
「あの人って…?まさか、あの片桐なつめのこと?」
「そう…」
「いつ?」
「火曜日…」
「どこで?」
「これから行くところ…」
 治樹は少し呆れ顔になったが、梨優がずんずん早足で歩いていくので、心配でもあったため一緒についていった。

 吾妻は練習部屋でチェロを弾いていた。
「吾妻さん」
 梨優が外から窓を叩くと、吾妻は鍵を開けた。
「梨優さん…しばらくいらっしゃらなかったので、どうしたのかと心配していました」
 そう言いかけて治樹の方を見た。
「こちらは?」
「この人はわたしの叔父で萱嶋治樹と言います」
「…今晩は…」
 治樹が挨拶をすると、吾妻も会釈をした。
「どうしたのですか?」
 勢いでやっては来たが改めて聞かれて梨優は返答に躊躇した。治樹が代わりに説明した。
「こいつ、風邪を引いていまして、ずっと寝込んでいたんです」
「そうでしたか…どうぞ、あがってください」
 吾妻は台所の椅子を持ってきて、二人に勧めた。
「コーヒーを入れます、インスタントですが…」
 コーヒーを運んできた吾妻が座ると、梨優はすぐに切り出した。
「あの…五月にこちらにいらしていた女性のことなんですけど…片桐なつめさんという方ですよね…オペラ歌手の…」
「…はい…それが…」
 吾妻は怪訝そうな顔をしている。
「火曜日、台風が来た日の夜、なつめさん、こちらにいらしてましたよね」
 治樹には見たと言ったが、梨優はなつめの声を聞き、玄関でパンプスを見ただけだった。
 吾妻は梨優の問いにしばらく黙っていた。
「わたし火曜日の夜、学校帰りにこちらに寄ったんです。それで、なつめさんがいらっしゃっていたようなので…黙って帰りました」
 吾妻は梨優がそう言うと、やっと口を開いた。
「…なつめはその前の晩、家に来ました」
 五月だけでなく、年に何度か帰国することがあるというなつめは、月曜の深夜に来て翌早朝滞在先のホテルに帰り、その夜再び吾妻の所にやってきたという。梨優が二人の話し声を聞いたのはその晩のことだ。
「こちらで仕事があるようでしたが、僕は詳しいことは聞いていません。…なつめがどうしたのですか…」
 吾妻の家にはテレビが無かった。音楽鑑賞用のオーディオに付いているラジオで天気予報やニュースを聞く程度で、新聞も取っていなかったため、やはりまだ知らない様子だった。
 梨優は頭がくらくらしてきた。慌てて駆けてきたため、熱がぶり返してしまったらしい。身体が少しふらつく。
「梨優…もう帰ろう…」
 治樹が心配して梨優の肩に手をやるが、梨優は首を振って吾妻に言った。
「吾妻さん、片桐なつめさんは、昨日イタリアでお亡くなりになったそうです」
「そんな…」
 七時のニュースをやっているラジオ局にチューニングを合わせて待っていると訃報が流れた。
 現地時間で月曜の夕方、日本時間では夜十一時過ぎ、前夜イタリア、トリノのレッジオ劇場で公演を終えた片桐なつめは、婚約者のいるフランスのニースに向う途中で交通事故に遭った。
 大量の失血による心肺停止状態で近くの病院に運び込まれ、蘇生処置が行なわれたものの昏睡状態が続いた。所持していたパスポートから身元が分かり、ニースに居た婚約者が病院に駆けつけたが、意識は戻らず事故から三日後に亡くなったという。
 来週、ニューヨークで婚約者が喪主となって葬儀を執り行うということだった。
 吾妻はしばらく黙り込んでいたが、悩ましげな様子で呟いた。
「…僕が会ったのは、なつめではなかったのでしょうか…」
「どこのホテルに滞在されているのかご存知ですか?」
 来日の際に必ず利用しているというホテルに治樹の携帯電話で問い合わせたが、なつめは泊まっていなかった。
「もう一件、掛けてもいいですか」
「どうぞ」
 吾妻は画面も見ずに番号を押した。
「もしもし、吾妻です。…はい…そうですか…はい、では…ニューヨークの方に…はい…はい…なんと申し上げて良いのか…はい…いえ、わたしは…はい、失礼します…」
 電話が終わると、吾妻は治樹に礼を言って携帯電話を返した。
「…なつめの実家です。火曜日に連絡があり、ご両親は水曜日にイタリアに発ったそうです…」
 両親の到着を待っていたかのように、なつめは木曜日の夕方、息を引き取ったということだった。
 吾妻はスツールに座って俯いていた。
「吾妻さん…」
 梨優がおずおずと声を掛けると、吾妻は顔をあげて微笑んだ。
「申し訳ありませんが、今日は帰っていただけますか」
「でも…」
「梨優…」
 治樹が首を横に振って促す。
「僕は、大丈夫ですから…」
 大丈夫じゃない…そう言いたかった。
「帰ろう、梨優。失礼します」

 梨優は治樹に抱えられるようにして吾妻の家を出た。
「お兄ちゃん…どういうこと?」
「…俺に聞くな…」
 治樹は少し怒った口調でそう答えた。
「吾妻さんは嘘なんかつく人じゃない…」
「…だとしたら、ホラーだ。超常現象ってヤツだよ…」
 治樹もゾクリと身体を震わせた。


第七話につづく